二子道

スポンサーリンク

    下地図右のサードバーのマーカーポイント名をクリックすると、上地図がそのマーカーポイントにズームし、下地図にマーカーポイントの吹き出しが表示されます。また、吹き出しにもリンクを設定しています。

    国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央右方向「白金臺町」から「衾」「野良田」「上野毛」を通り、六郷用水の「稲荷橋」から「二子瀬田渡船場」に向かう道が二子道です。]

    東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」[地図右上・目黒町の「めぐろ駅」から郊外電車線終点の八雲通り、玉川村の玉川神社、満願寺の上方向の道が二子道です。]

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    [明治42年に制定された耕地整理法の適用を受けて、大正初期から昭和6、7年にかけてのおよそ20年間、各地で耕地整理が実施された。この時期は大正8年に都市計画法が制定されるなど、ちょうど東京市が近代都市へ生まれ変わる時期と重なり、東京市周辺では耕地整理の名の下に、実質的には区画整理や道路整備が進められた。ことに大正12年の関東大震災を機に、東京市の周辺地に居を移す人が相次いだため、農地は虫食いのように宅地に変わり、農村の秩序は少しずつ崩れていった。
    東京から押し寄せる時代の波に対して、目黒の人びとはこれに適応する準備を始めた。大正4年設立の大崎町目黒村耕地整理組合をはじめとして、昭和の初めまでに13の組合が設立認可を受けた。これらの組合は、農村から都市への脱皮を使命として生まれたのである。宅地の需要はあるのだから、農地を整備して宅地化すれば地価は上昇する。耕地整理組合の設立に走り回ったのは、時代の流れを察知した大地主たちであった。
    呑川の流域である衾村でも、衾第一耕地整理組合(昭和6年5月2日)、衾第二耕地整理組合(昭和6年10月10日)、衾第三耕地整理組合(昭和6年10月10日)が認可を受け、昭和7年から昭和11年(1932年から1936年)までに工事が行われたとされています。「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」図と「今昔マップ」の1944~1954年の地図を見ると二子道の改修状況がわかります。  (「歴史を訪ねて 耕地整理組合 目黒区 – 目黒区役所」、「文化財めぐり(衾コース):目黒区公式ホームページ」より)]

    二子道
    [目黒区内を縦断する目黒通りの前身は、二子道と呼ばれていました。昭和9年から昭和40年にかけて徐々に整備され、広く真っすぐな道になりましたが、以前は、途中、何か所かで大きく迂回する、かなり曲がりくねった道でした。
    二子道は権之助坂を下り、目黒川に架かる目黒新橋を渡り目黒大鳥神社北を通ります、目黒大鳥神社付近の道は、金毘羅坂といい、金毘羅坂名はかって坂北側に高幢寺・金毘羅大權現があったことによる呼称ですが、高幢寺は明治維新後の廃仏毀釈により廃寺となり、その後金毘羅大權現も廃れてしまいました。(「江戸御場絵図」には高幢寺 鎮護神と描かれています。※後継寺とされる、北海道東川町東川寺のページ – 「高幢寺・金毘羅大權現 – 東川寺 Homepage」)
    二子道には現在でも品川用水に架かっていた旧清水橋の西側(目黒区鷹番1丁目1付近)や柿の木坂の西側に残る八雲通り(目黒区八雲1丁目7付近)などに旧道が残っています。八雲通り北側には柿の木坂北野神社常圓寺東光寺八雲氷川神社金蔵院があります。
    二子道は等々力六丁目まで目黒通りと称されますが、等々力六丁目交差点で、目黒通りと分かれ、そのすぐの二又に地蔵と庚申塔があり、二又の南側の道が二子道です。中町天祖神社参道前を通り、東急大井町線上野毛駅環八通りを通過して、覚願寺と上野毛稲荷神社間の稲荷坂を下り、六郷用水に架かる稲荷橋を渡り、右折して六郷用水沿いに進み、次太夫堀脇の道標(庚申塔)前を通り、調布橋(旧法徳寺橋)南詰めで左折して、二子の渡しに向かいます。]

    スポンサーリンク