蔵前閻魔堂跡

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マーカーは「閻魔堂跡」石碑です。

蔵前閻魔堂
[浅草天王町に閻魔堂が移ってきたのは江戸初期の頃、本尊閻魔大王で運慶作の丈六坐像であったと伝えられます。
「蔵前の閻魔堂」として信仰を集め、正月と7月の16日に行われた縁日は多くの参詣者で賑わいを見せていました。
関東大震災にて焼失。浅草橋二丁目の玩具会館横に、「閻魔堂跡」の石碑が残っています。  (「江戸時代 | 歴史 | 東京下町問屋街」より)]

華徳院(杉並区松ノ木3丁目32番11号)
[華徳院は、称光山長延寺と号する天台宗の寺院で、本尊は閻魔王像です。
「文政寺社書上」等によれば、下野国佐野(現栃木県佐野市)の地に、天台座主第3世慈覚大師により開創され、理正院と称していました。
その後、武蔵国霞ヶ関(現千代田区)に移り、慶長年間(1596~1615)には浅草蔵前天王町(現台東区浅草橋)に寺地を拝領し、閻魔堂の別当となり、本尊を閻魔王としました。
寛保3年(1743)大寺格となり、延享年間(1744~1748)寺号を改め、大檀那堀丹後守直時寛永20年〈1643〉没)の法号に因み華徳院としました。
当寺の本堂には、運慶蘇生の作といわれた丈六仏の本尊・閻魔王像を中に、右には本尊と同木でやはり運慶の手に成るといわれた奪衣婆像、左には聖徳太子作といわれた本地化馬地蔵尊が祀られ、「蔵前の閻魔堂」と呼ばれていました。また、「江戸三閻魔」の一つにも数えられ、地獄の釜の蓋もあくといわれた正月と7月の16日の大賽日には参詣人で大いに賑わったといわれています。
しかし大正12年の関東大震災によりこれらの仏像も伽藍とともに消失してしまい、その後には日光輪王寺より閻魔王を迎え、境外堂としてお堂が建てられました。
伽藍は大正2年より区画整理のために墓地を現在地に移転していたことから、移転先を現在地と定め、昭和3年に本堂を再建し、牛込千手院行元寺の閻魔王像を本尊として迎えました。
蔵前のお堂は昭和20年の戦火により消失しましたが、閻魔王像は消失をまぬかれ、当寺に安置されています。  (「110 華徳院 【寺院】(松ノ木3丁目32番11号)|杉並区公式ホームページ」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図中央左方向・「池田内匠頭上屋敷」下に「華徳院」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図中央右方向・「池田信濃守」上に「華徳院」、「同寺預地」と描かれています。)

カメラ南南西方向に「閻魔堂跡」の石碑があります。

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