田沼意次上屋敷跡

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田沼意次関連リンク – 「諏訪藩上屋敷跡(田沼意次屋敷跡)」、「狩野勝川院屋敷跡」、「田沼意正上屋敷跡],「新徴組屯所跡(田沼玄蕃頭屋敷跡)

田沼意次上屋敷
[田沼意次は御側御用取次であった宝暦8年(1758年)に江戸の呉服橋御門内に屋敷を与えられるとともに、相良藩1万石の領主となったが、この時の相良には城はなく陣屋のみあった。意次はその後、10代将軍徳川家治の信任を受けて老中として手腕をふるい、所領も加増を重ねた。明和4年(1767年)には家治の命によって神田橋御門内に屋敷を与えられ(この時から「神田橋様」と呼ばれることとなった)、築城を許可されて城主格となった。  (wikipedia・相良城より)]

牧之原市|牧之原市プロフィール|田沼意次

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – [分間江戸図鑑](出版年月日・[宝暦(1751年-1764年)年間])」(絵図中央「御城」下方向「ゴフクハシ」上に「田沼トノモ」と記述されています。)

東京都立図書館 – 神田浜町日本橋北図(明和7[1770])」(絵図四つ切左下・「両国橋」上方向で、「ヤケンホリ」左方向に「田沼主殿頭」と、絵図四つ切左上にも「田沼主殿頭」と下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図[出版年月日・明和9 (1772)]」(コマ番号2/5・絵図四つ切左下、「御城」右下に「田沼主殿上屋敷」が描かれています。また、「東京都立図書館 – 神田浜町日本橋北図」と同じ場所に二か所の「田沼主殿頭」下屋敷が描かれています。)

カメラ南西方向・日本経済団体連合会ビル付近に田沼意次上屋敷があったようです。

田沼意次
[田沼意次は、享保4年(1719年)7月27日、田沼意行の長男として江戸の本郷弓町の屋敷で生まれる。幼名は龍助。父・意行は紀州藩足軽だったが、部屋住み時代の徳川吉宗の側近に登用され、吉宗が第8代将軍となると幕臣となり小身旗本となった。吉宗は将軍就任にあたって紀州系の家臣を多数引きつれて幕臣とし、特に勘定方と将軍および子供たちの側近に配置して幕政を掌握したが、意次は紀州系幕臣の第二世代目に相当し、第9代将軍となる徳川家重の西丸小姓として抜擢され、享保20年(1735年)に父の遺跡600石を継いだ。意次は父・意行が当時としては老齢になってから生まれた息子だった。意行は息子を授かるために七面大明神に帰依し、そして意次が生まれた。そのため意次は七面大明神に感謝し、家紋を七曜星に変更したといわれる。
相良藩主時代
元文2年(1737年)、従五位主殿頭になり、延享2年(1745年)には家重の将軍就任に伴って本丸に仕える。寛延元年(1748年)に1,400石を加増され、宝暦5年(1755年)には更に3,000石を加増され、その後家重によって宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆郡上一揆)に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられた。
宝暦11年(1761年)、家重が死去した後も、世子の第10代将軍徳川家治の信任は厚く、破竹の勢いで昇進し、明和4年(1767年)にはさらに5,000石加増、御用人から側用人へと出世し従四位下に進み2万石の相良城主となって、明和6年(1769年)には侍従にあがり老中格になる。安永元年(1772年)、相良藩5万7,000石の大名に取り立てられ、老中を兼任し、前後10回の加増で僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、側用人から老中になった初めての人物となった。順次加増されたため、この5万7000石の内訳は遠江国相良だけでなく駿河国下総国相模国三河国和泉国河内国の7か国14郡に跨った分散知行となった。
田沼時代
詳細は「田沼時代」を参照
この頃より老中首座である松平武元など意次を中心とした江戸幕府の閣僚は、数々の幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれる権勢を握る。悪化する幕府の財政赤字を食い止めるべく、重商主義政策を採る。内容は株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手する等の政策を実施した。その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。しかし、社会の初期資本主義化によって、町人・役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行した。また、都市部で町人の文化が発展する一方、益の薄い農業で困窮した農民が田畑を放棄し、都市部へ流れ込んだために農村の荒廃が生じた。印旛沼運河工事の失敗や明和の大火浅間山の大噴火などの災害の勃発、疲弊した農村部に天明の大飢饉と呼ばれる食糧難や疫病が生じた。意次は対策を打ち出すが、失敗し逆に事態を悪化させてしまった。その中にあって財政難に陥っていた諸藩は米価の値上がりを借金返済の機会とし、検地により年貢の取立てを厳しくしていった。このような世相の中、それらが元による都市部の治安の悪化、一揆打ちこわしの激化により不満が高まり、江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑を流されるなど、次第に田沼政治への批判が集まっていく。外国との貿易を黒字化させて国内の金保有量を高め、さらには北方においてロシア帝国との貿易も行おうとしていたほか、平賀源内などと親交を持ち、蘭学を手厚く保護し、士農工商の別にとらわれない実力主義に基づく人材登用も試みたが、これらの急激な改革が身分制度や朱子学を重視する保守的な幕府閣僚の反発を買い、天明4年(1784年)に息子で若年寄田沼意知が江戸城内で佐野政言に暗殺されたことを契機とし、権勢が衰え始める。天明6年(1786年)8月25日、将軍家治が死去。死の直前から「家治の勘気を被った」としてその周辺から遠ざけられていた意次は、将軍の死が秘せられていた間(高貴な人の死は一定期間秘せられるのが通例)に失脚する。この動きには、反田沼派や一橋家徳川治済)の策謀があったともされる。8月27日に老中を辞任させられ、雁間詰に降格。10月5日には家治時代の加増分の2万石を没収され、さらに大坂にある蔵屋敷の財産の没収と江戸屋敷の明け渡しも命じられた。その後、意次は蟄居を命じられ、二度目の減封を受ける。相良城は打ち壊し、城内に備蓄されていた金穀は没収と徹底的に処罰された。長男の意知は既に死去していて、他の三人の子供は全て養子に出されていたため、孫の龍助(田沼意明)が陸奥1万石に減転封のうえで家督を継ぐことを許された。同じく軽輩から側用人として権力をのぼりつめた柳沢吉保間部詮房が、辞任のみで処罰は無く家禄も維持し続けたことに比べると最も苛烈な末路となった。天明8年(1788年)6月24日、江戸で死去。享年70。  (wikipedia・田沼意次より)]

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