横十間川

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マーカーは清水橋です。

横十間川
[東京都江東区亀戸と墨田区業平の境界で北十間川から分かれ南へ流れる。ここから竪川が交差する点に至るまでは、川の中央が両区の区境となっている。竪川と交差し、さらに小名木川と交差するが、そこにはX字状の小名木川クローバー橋が架かる。仙台堀川と交差した下流で西に流路を変え、江東区東陽で大横川に合流する。1659年 – 徳山重政・山崎重政両名(翌年本所奉行に任命)によって開削された。江戸城に対して横に流れ、川幅が十間(18m)あったことから。別名の天神川は、亀戸天神の横を流れることに由来する。
横十間川・wikipedia-photo、水辺の散歩道・wikipedia-photo、新大橋通りの橋上から北側を望む(2009年7月11日撮影)・wikipedia-photo、「広重『名所江戸百景』「柳しま」。絵の下の川が横十間川、絵の中央の川が北十間川、左上の山は筑波山。」・wikipedia-photo  (wikipedia・横十間川より)]

[近世に入って、本所の開発が本格的に行われるのは、明暦3年(1657)の大火後です。
 万治3年(1660)、幕府本所奉行という役職が置かれ、徳山五兵衛重政と山崎四郎左衛門重政の二人が任命されました。そして、竪川や横川、源森川(げんもりがわ)を開通させ、小名木川を整備し、掘り下げた土で湿地を埋め立て、隅田川の東側に土地を築きました。こうしてできあがった更地(さらち)に屋敷割をすることがふたりの任務であったといわれます。
 このときの大横川と横十間川の南端は、ともに小名木川との合流点でした。小名木川より南の深川南部の開発は、まだ未完成です。元禄14年(1701)、深川の南側にあたる海岸の入り江の埋め立てが進み、本木場から猿江に移転していた木場が、現在の木場公園周辺のいわゆる「木場」に移転したのち、このふたつの川は、小名木川以南に延伸されました。
【横十間川沿いの鋳造業と近代工業】 横十間川も、大横川と同じく万治2年(1659)の開削です。大横川の川幅が 20 間なのに対し、川幅 10 間(約18m)であったため、この名がつけられました。大横川が単に横川ともよばれるのに対し、こちらは単に十間川ともよばれます。
 流域には「亀戸銭座」(銭座跡)があり、銭貨の鋳造が行われていました。三井親和(みついしんな)の筆による文字の入った4文銭が亀戸銭の特色であったといわれます。また、小名木川との交差点付近は、「釜屋堀」(釜屋跡碑)とよばれ、釜六・釜七という著名な鋳物師(いもじ)が住み、ここで幕府の鍋・釜の御用を一手に引き受けていました。明治になってからも二軒は、さまざまな鉄製品をここで生み出しています。このほか近代工業の発展とともに横十間川流域では、紡績や化学肥料製造などが行われるようになりました。
【深川と城東の境】 のちに城東区と深川区の境となる横十間川の周辺は、深川の中心から少し離れることもあって、江戸時代から猿江泉養寺の蓮の花や亀戸龍眼寺の萩の花など、田園風景のなかの情緒ある名所が人びとを楽しませました。  (「大横川」より)]

カメラ位置は清水橋です。

カメラ位置は小名木川クローバー橋・カメラ北、南方向が横十間川で、カメラ西、東方向が小名木川です。

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