本社三島神社

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マーカーは本社三島神社です。

本社三島神社
[台東区内には伊予国一宮・大山祇神社を本社とする三島神社が三社ある。、根岸の元三島神社、下谷(旧・金杉町)の三島神社と当社であるが、元は一つの神社であり、由緒も共通している。弘安4年(1281)の元寇に際し、河野通有は氏神である大山祇神社(三島大明神)に戦勝祈願をして九州に出征し、大山祇神社の神使である白鷺の導きによって大いに戦功を上げることができた。伊予に帰国した後、夢に大山祇神が現れ、「武蔵国に我を祀れ」というお告げがあった。そこで、武蔵国豊島郡の上野山内にある河野氏の館に奉斎したことに始まるという。上記は旧別当・西蔵院の了心による『三島大明神略縁起』の説で、三社ともこの縁起を採っているが、異説もある。『江戸名所図会』では、河野某が本国伊予から武蔵国に赴く途中、海上が荒れたため、大山祇神社に祈願したところ、無事に到着した。その奉賽として邸内に御分霊を勧請したとする。また、『改撰江戸志』などには、延久2年(1070)武蔵国豊島郡の武士・江川団左衛門安経が下谷金杉村根岸村に三島神を奉斎したことにするとあるらしい。宝永2年(1705)河野権九郎越智通護が社殿を再興したが、同6年(1709)社地が寛永寺の用地になることになり、台命により浅草元小揚町の現社地に1千坪を与えられて遷座した。(金杉の三島神社、根岸の元三島神社の由緒では、慶安3年に上野山内から金杉村に遷座、宝永6年に金杉から浅草に遷座したとある。元禄年間に浅草に遷座したとする資料もあるが、これは『江戸名所図会』を根拠とするようだ。しかし、寿・根岸の由緒では宝永6年、金杉は同7年としているので、いずれにせよ宝永年間が正しいと思われる。1年の誤差は移転に要した時間か?)ところが、金杉・根岸の氏子から氏神様が遠いのは不都合だという声が上がり、御分霊を根岸の熊野神社に合祀、元三島神社と称するようになった。また、金杉町にも御分霊が勧請され、金杉(現・下谷)の三島神社となった。当社が「本社三島神社」と称するのは、根岸・金杉の分社に対する本社の意味だと思われる。三社の内、天保5年(1834)に刊行された『江戸名所図会』に載っているのは当社のみなので、分祀はそれ以降のことと考えられる。明治5年(1972)村社に列格。大正12年(1923)関東大震災で社殿等焼失し、その後再建されたが、昭和20年(1945)戦災のため再び焼失した。現在の社殿は同47年(1972)に造営されたものである。  (「本社三島神社 | 東京都台東区 | 古今御朱印研究室」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図右下方向・大岡兵庫頭上屋敷の右に三島門前町が記述され、その下に明神が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之二」(絵図四つ切左上・「堀出雲守」左に「三島明神」が描かれています。)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・三島明神社諏訪明神社(絵の後方に三島明神社が描かれています。)

江戸名所圖會. 卷之1-7 / 齋藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 畫圖」・「三島明神社諏訪明神社」(16-28)、「三島明神社解説・左ページ中程」(16-26)

カメラ北方向が本社三島神社です。

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