御先手組屋敷跡(柳亭種彦住居跡)

スポンサーリンク

マーカーはカメラ位置です。

御先手組屋敷跡
[下谷練塀小路の東の通り、和泉橋から一枚橋に至る辺りの和泉橋通りの辺りには、幾つもの御徒衆の組屋敷がありました。この辺りは、現在の秋葉原から御徒町に掛けての辺りです。この和泉橋通りの一つ西側の通りは中御徒町と言った時期もあります。
他にも藤堂和泉守加藤遠江守の屋敷付近があり、他にも小さな武家屋敷があったり、御先手組久保田勘右衛門の組屋敷もありました。余談ですが、大洲加藤家の屋敷の近くにあった御先手組久保田勘右衛門の組屋敷は、江戸時代末期の戯作者として一世を風靡した柳亭種彦が育った場所でもあります。本名高屋彦四郎と言い、小十人組衆でしたが、本所吉田町に生まれて、育ったのが此処だそうです。  (「Gokenin 御家人|軍事板常見問題 戦史別館」より)]

柳亭種彦
[柳亭 種彦(りゅうてい たねひこ、天明3年5月12日(1783年6月11日)- 天保13年7月19日(1842年8月24日))は、江戸時代後期の戯作者。長編合巻『偐紫田舎源氏』などで知られる。
江戸の本所に生まれ、間もなく御徒町へ移った。幼名は主税、字は敬之。食禄200俵の旗本の、一人っ子だった。通称彦四郎、寛政8年(1796年)14歳のとき、父甚三郎が没し、家督を継ぎ、高屋彦四郎知久を名乗った。食録二百俵。別号、足薪翁、木卯、偐紫楼。
頑健ではなく、「文武」のうちの「文」にいそしみ、少年期から漢籍に通じた。歌舞伎浄瑠璃を好み、それらの脚本を収集し研究し、井原西鶴近松門左衛門に傾倒した。狂歌を、はじめ唐衣橘洲に、次いで宿屋飯盛こと石川雅望に学んだ。雅望は国学の師でもあった。川柳の、三世川柳(1776 – 1827)の社中に入った。さらに、23歳のころに妻とした勝子は、国学者加藤美樹の孫で、加藤家の蔵書を自由に読めるようになった。俳書を集め、漢画を習ったことも、のちの出版に役立った。凝り性で詮索好きの、学究肌だった。
狂歌の狂名は、はじめ『柳の風成』、のちに『心の種俊』。『柳亭種彦』のペンネームは、これらから来る。
文化3年(1806年)24歳のとき、読本『阿波の鳴門』ほかを、翌年、唯一の洒落本『山嵐』ほかを出版して、烏亭焉馬山東京伝山東京山葛飾北斎歌川国貞らと交わるようになったが、文化8年(1811年)の『鱸庖丁青砥切味』以降、合巻に力を注いだ。
文化12年(1815年)(33歳)から天保2年(1831年)(49歳)にわたって中編集、『正本製』(しょうほんじたて)全12編を刊行した。人気演目の翻案を「正本(芝居の脚本)風に仕立てた」シリーズで、国貞の挿絵とあいまって、全巻歌舞伎趣味に満ち、大いに迎えられた。各編の副題はつぎ。なお、版元は旧知の永寿堂西村屋与八だった。
『正本製』の先が見えた文政12年(1829年)(47歳)から、長編、『偐紫田舎源氏』を刊行し始めた。絵師は国貞、版元は鶴屋喜右衛門。キャラクター商品が出回るほどの、ベストセラーになった。
『田舎源氏』が軌道に乗った天保5年(1834年)(52歳)から、『邯鄲諸国物語』の刊行を始めた。国内諸国を舞台にした伝奇物語集で、絵師は国貞、版元は栄久堂山本平吉だった。
天保7年(1836年)(54歳)のとき、浅草堀田原(現在の蔵前3丁目)に『偐紫楼』を新築し、長年の御徒町から移転した。
天保13年(1842年)(60歳)、水野忠邦天保の改革により譴責され、間もなく没した。自殺説もあるが、「ショックによる病死」説が多い。譴責は直接的には、『田舎源氏』への言いがかりだった。『邯鄲諸国物語』も中絶した。
芳寛院殿勇誉心禅居士。初め赤坂の浄土寺に葬ったが、明治40年(1907年)、東京府荏原郡(現、品川区荏原一丁目)の浄土寺墓地に改葬され、現存している。
種彦は、まず合巻作者とされているが、学識の実った考証的な随筆類も、少なからず遺している。『柳亭記』、『柳亭筆記』、『足薪翁記』などは、刊行年次が確認されていない。  (wikipedia・柳亭種彦より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図」[絵図中央・加藤於菟三郎(大洲藩加藤家上屋敷)の上に御先手組屋敷が描かれています。]

[デジタル図書へリンク・「正本製. 初,[2]-12編 / 柳亭種彦 作 ; 歌川国貞 画」、「偐紫田舎源氏. 初,2-38編 / 柳亭種彦 作 ; 歌川国貞 画」、「邯鄲諸国物語. 初,2-20編 / 柳亭種彦 作 ; 歌川国貞 画」]

カメラ位置付近一帯が御先手組屋敷跡です。

スポンサーリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

This blog is kept spam free by WP-SpamFree.