柳橋、亀清楼

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マーカーは柳橋です。

柳橋
[柳橋(区域)は1630年の江戸時代徳川幕府が設置した米蔵「浅草御蔵」地域で、現在の柳橋2丁目には三河国岡崎藩邸や信濃国上田藩邸などの武家屋敷しかなかった。江戸時代以降は官有地となった。柳橋1丁目は浅草旅籠町などが中心に江戸前の料亭が軒を連ね、特に柳橋芸妓が有名だった。古くは1,900年前に建立された第六天社(現在:第六天榊神社)は、日本武尊が東征の時にこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊と惶根尊の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としている。平成22年(2010年)が建立1900年とされる。
柳橋は神田川隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁で、その起源は江戸中期、当事は下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往来していたものの不便な為元禄10年(1697年)に架橋を願い出て許可され翌11年に完成。その頃は隅田川の船遊び客の船宿が多く花街として新橋と共に東京を代表する場所になり、柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われている。明治20年(1887年)に鋼鉄橋になり、その後の関東大震災にて焼失したため震災復興事業として昭和4年(1929年)に現在の橋が完成。永代橋のデザインを取り入れたといわれている。平成11年に中央区区民有形文化財として登録。  (wikipedia・柳橋_(神田川)より)]

亀清楼
[東京新聞のホームページの情報によれば、
安政元年(1854)創業。創業者亀屋清兵衛が人気料亭「万八楼」を買い取って改名したもの。
嘉永年間(1848~1854)に出されたという「料理茶屋番付」(守貞謾稿 に紹介されている)には、「万八」「亀清」の両方がほぼ同格の店として紹介されている。
・「鹿鳴館秘蔵写真帖」には明治初期に撮影された「雪の柳橋 万八楼」の写真があり、また、「明治・大正・昭和東京写真大集成」には、万八楼の廃業は明治初期のことであったと説明されている。また、亀清楼は明治20年ごろこの地に豪壮な木造建物を新築しており、その上棟式の写真が掲載されている。
上記を総合すれば、
・亀清(亀清楼)の創業は、安政元年よりは少し古いかもしれない。
・当初の亀清は現在地と別の場所にあり、万八(楼)と並存していた時代も長いが、明治に入ってからは、廃業した万八楼の跡地を買収、建物も新築して亀清楼として営業開始した。
亀清楼は、浅草橋の柳橋の麓にある。老舗の料亭で、日本料理店の老舗です。  (「亀清楼に五感が感動する! – 五感プロデュース研究所!」より)]

カメラ位置は柳橋で、カメラ東北東方向のビルが老舗料亭「亀清楼」です。

カメラ西北西方向が柳橋(神田川)で、カメラ南南東方向が両国橋です。

資料リンク
「東都歳事記」・初夏交加図.jpg[図会の橋下に舟遊び、橋を渡る二人の女性を柳橋芸者?と考え、この橋を柳橋にみたてました。]

東都歳事記. 巻之1-4,附録 / 斎藤月岑 編纂 ; 長谷川雪旦 図画 ; 松斎雪堤 補画」・「初夏交加図」(3-3)

江戸後期の、神田川と隅田川合流点(柳橋)の写真です。

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