矢部定謙屋敷跡

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マーカーはニ長町交差点です。

[矢部への判決前後の情景は、高橋義夫が「天保世直し廻状」の中で次のように表現している。
    (前略)
 青竜寺の訪問を最後に訪れる者は、出入りの魚屋や八百屋くらいになった。彼らの話によると、二長町の通りと御徒町の辻に、目つきの鋭い二人づれの武士が立っていて、定謙の屋敷のほうへ曲がろうとすると、用向きや名前を問い質すのだという。
 鳥居耀蔵の支配する南町奉行所の同心たちらしい。ついこの前まで人情奉行ともてはやされた定謙を、かつての部下が見張るのである。屋敷そのものが、檻のない牢獄となった。
 そんな重苦しい日々が二ヵ月余もつづいた。その間、定謙は二度にわたって評定所に呼ばれ、目付の榊原葺諦勲の審問を受けた。南町奉行所の与力仁杉五郎左衛門同心、堀口六左衛門が、定謙が南町奉行所に就任する前におこした不祥事が問われた。それは本来、前任の筒井政憲の責任に帰すべきことだったので、定謙は知らぬといって押し通した。
 三月二十一日が処分の申し渡しの日だった。前日までに家の中を塵ひとつないほどに掃除していた。
 定謙は朝早く、妻や腰元、晋助たち用人を座敷に集め、
「お召しにより、ただいま参る。どのようなことがあっても、とり乱さぬように、心静かに役所よりの知らせを待て。もしものことがあれば、後のことは狩野に任せる」
と、静かにいった。二長町の屋敷はお上からの預かりものである。処分によっては明け渡さなければならない。
 定謙はみなに見送られ、馬で評定所に赴いた。前後に、少し距離をおき、目付の配下がついて来た。
 評定所で、大目付初鹿野美濃守、北町奉行遠山左衛門尉目付榊原主計頭立ち会いの下で、桑名藩松平和之進へお預けとすると申し渡された。
 定謙はその席から、ただちに神楽坂の桑名藩中屋敷に引き渡され、幽閉の身となった。同時に、養子鶴松には、改易の処分が下された。
 二長町の屋敷では、みながしわぶきひとつ立てないほど静かに評定所の知らせを待っていたが、処分が伝えられると、うめきに似た声やしのび泣きの声がもれた。
 晋助はしばらく腰が立たないほどの衝撃を受けた。家名断絶というべき、きびしい処分である。まさかそれほどの処分が下るとは、予想していなかった。
 夕方近く、桑名藩中屋敷から使いが来た。定謙のことづてだというが、白い絹布に包んだ短冊が一つあるだけで、
   うつし見る鏡なければ妻子かは吾が影さへに逢はで過ぎぬる
と、和歌がしたためられていた。  (「③評定所の判決 – Biglobe」より)]

「改易となった鶴松は、弘化2年(1845)に200俵を下され(定謙は500石)小普請入りを許されました。  (「旗本御家人 – 43. 矢部駿河守御預之節物語之事(弘化雑記)」より)]

[矢部定謙は御先手組頭の加役として、下記期間火付盗賊改方として兼務した。
文政11年(1828年)10月8日 – 文政12年(1829年)6月2日
文政12年(1829年)12月7日 – 文政13年(1830年)閏3月28日
天保元年(1830年)11月6日 – 天保2年(1831年)3月19日  (wikipedia・火付盗賊改方より)]

お救い米買い付け事件に関する詳細は下記サイトがおすすめです。
二杉・一杉 出自考」 – 「第3編 仁杉五郎左衛門幸信」 – 「第7章 天保飢饉とお救い米」・「第 14 章 判決」・「第 18 章 矢部定謙のその後」・「第 19 章 鳥居耀蔵のその後」

上記サイトで『判決の日、3月21 日夕方、下谷ニ長町の拝領屋敷で謹慎していた矢部のところに、寄合肝煎の鍋島内匠と筑紫右近が来て評定所からの呼出を伝えた。』と記述されていますので、矢部定謙は先手組頭でしたので、罷免時の 矢部定謙屋敷は下谷ニ長町の御先手組屋敷周辺にあったと思われます。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 下谷絵図(1849 – 1862)」(絵図下中央左寄り、佐竹次郎(久保田藩)上屋敷、宗對馬守(対馬府中藩)上屋敷、藤堂佐渡守(久居藩)上屋敷、藤堂和泉守(津藩)中屋敷に囲われた一帯が下谷二丁町と思われます。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 十四之二(天保15年・1844年)」(コマ番号2/3、3/3の中央上、佐竹右京太夫屋敷地下右方向に下谷二丁町と記述されています。この近辺に拝領屋敷があったのではないかと思われます。)

カメラ位置はニ長町交差点で、カメラ位置周辺に矢部定謙の拝領屋敷があったのではないか思われます。

矢部定謙
[矢部 定謙(やべ さだのり、寛政元年(1789年) – 天保13年7月24日(1842年8月29日))は、江戸時代後期の旗本幕臣である。矢部定令の子。通称は彦五郎。位階は従五位下。官職は駿河守から左近衛将監に遷任し、駿河守に再任。戒名:晴雲山院殿秋月日高定謙大居士。荘照居成神社(そうしょういなり。山形県飽海郡遊佐町蕨岡上寺鎮座)の祭神として祀られる。墓所は東京都江東区平野日蓮宗法苑山浄心寺
天保2年(1831年)に堺奉行、同4年(1833年)に大坂西町奉行となる。おりしも当時凶作に見舞われ、矢部は飢饉対策に努める。この時矢部は元与力で学者であった大塩平八郎と会合を持ったため、矢部と大塩が深い信頼関係にあったと見られていたが、矢部が飢饉対策は大塩の意見とは食い違うものであった。このほか在任中には竹島事件の裁定を行っている。天保7年(1836年)に勘定奉行に就任するため江戸にうつった。
矢部の離任後間もない天保8年(1837年)、大塩平八郎の乱が発生した。大塩が幕府に提出しようとした建議書8カ条のうち、6カ条は「国を乱す「奸侫」」である矢部を弾劾するものであった。この中では矢部が様々な不正を行い、口封じのために証人を殺害したとされている。しかし矢部がこの時点で処分されることはなかった。天保9年(1838年)からは西丸留守居となり、大御所徳川家斉に仕えた。
天保11年から、老中水野忠邦の主導により武蔵川越藩出羽庄内藩越後長岡藩三方領知替えが問題となっていた。天保12年(1841年)4月28日に矢部は江戸南町奉行となり、老中の命により検証を行った。結果として領知替えの必要性を認めず、再吟味を具申した。翌年7月に転封は将軍徳川家慶の裁断により中止となった。定謙没後、出羽庄内藩復領の恩人として祭神に祀られる契機となる。また水野が推し進めた天保の改革に北町奉行遠山景元と協同して対抗する。当時の価格騰貴に対し、水野や藤田東湖らがて株仲間の廃止を求めた際にも、一部の商人の華美な生活態度にも問題があるものの、物流上の様々な制約が最大の一因であり、急激な株仲間の廃止は、却って混乱を招いて人々を苦しめると主張した。
天保12年(1841年)12月、矢部は江戸町奉行を解任された。大坂町奉行時代の不正、江戸町奉行時代のお救い米買い付け事件の調査不正などが理由であったが、主因は水野と対立したために目付鳥居耀蔵の策謀により罷免されたと見られている。取調中に無実を友人に訴えたことが問題となり、同13年(1842年)、伊勢桑名藩預かりとなった。お預から三ヶ月後、矢部は病死した。抗議のため自ら絶食したという説もある。没後、株仲間の急激な廃止政策が経済界に混乱をもたらし、却って人々を苦しめる事になったために、定謙の見識の正しさが証明された。このため、川路聖謨幕末期の官僚からは、その非業の死を惜しまれる事になった。その後、改革の失敗と不正発覚により水野、鳥居は失脚、養子の鶴松が幕府への出仕を認められ、矢部家は再興された。  (wikipedia・矢部定謙より)]

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