稲荷橋跡、猿屋町御貸付金会所跡

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マーカーはカメラ位置です。

稲荷橋
[浅草福富町一丁目との間の鳥越川に架かる板橋(幅六尺・渡り六間)は里俗に稲荷橋(のち猿福橋)といった(沿革図書)。架橋年代は不明だが、享保17年から橋の両側の二町で普請を請負った。同橋の東側8間は町内物揚場で、橋畔に加賀美稲荷・粂森稲荷(現加賀美粂森稲荷神社)があった。加賀美稲荷は町名の由来となった猿屋加賀美太夫の旧居を祀った町内持の小祠で、粂森稲荷は名主小島屋酉之助持の小祠である。一説に酉之助の先祖が寛永七年三味線堀川筋掘割を勤め、下谷小島町起立にかかわり、小島町の名の由来となったとされる(文政町方書上)。
札差御改正会所は寛政2年浅草猿屋町続きの火除地のうち表間口20間・裏幅20間・東西裏行25間の地所に建てられた。これは寛政の改革の一環として寛政元年に発令された棄捐令の取扱のために設置されたもので、札差より御家人へ貸出す金利の取締などを行った。同6年同様に火除地であった猿屋町会所の東側に、上納米を改める御廻米会所が設置された。間数は東側の表間口9間・裏行25間4尺、西側の裏行22間余・裏幅9間4尺(文政町方書上)。  (「浅草猿屋町 | 仲介手数料最大無料の東京賃貸事情」より)]

猿屋町御貸付金会所
[猿屋町御貸付金会所(さるやちょうおかしつけきんかいしょ)は、寛政の改革の棄捐令の際に札差救済のために浅草猿屋町(現在の台東区浅草橋3丁目付近)に設置された機関。後に札差に対する監督機関としての機能も有した。
棄捐令を発布するに際して老中松平定信らが危惧したのが、かつて鎌倉幕府永仁の徳政令において、却って金融業者の反感を買って融資の道を絶たれた御家人が更なる貧窮に陥った事態の繰り返しを避けることであった。これに対して勘定奉行久世広民の提示した政策案は、江戸京都大坂の有力豪商らから資金を募って経営状態の良い有力な札差に会所を運営させて経営困難となった札差に年利一割で貸し付け、その利子収益を事務経費・運営手当・出資配当として1:1:8で分配するというものであった。この案は後に様々な変更を加えられる事になるが、会所設立の原案は久世広民により考えられたものである。
だが、江戸幕府が出資するか否かで意見がまとまらず、資金貸付けの規則が決まったのは、棄捐令発布の翌年寛政2年(1790年)2月のことであった。江戸の主要商人10名が勘定所御用達として主たる出資者となり(当初見送られた幕府からの支援も後には行われる)浅草御蔵近くの猿屋町に設置され、町年寄樽屋与左衛門が運営責任者となった。そのため、樽屋御役所(たるやおやくしょ)とも称された。猿屋町に出来た役所は、間口30間(約55メートル)・奥行25間(約45メートル)の建物で、正しくは札差御改正会所という。会所の近くには御廻米納会所や札差会所の建物もあった。
会所では、経済的に困難に陥った札差に経営資金を融資したが、仲間の札差による連帯保証旗本・御家人に対する貸出実績、元本以上の抵当設定などその審査は厳しかった。さらに、貸し出される資金は必要とする金額の40パーセントまでで、15ヶ年賦・年利6パーセントと定められた。幕府としては、札差が会所と旗本御家人の間の貸金仲介業者となってしまう事を望んではおらず、会所から札差に貸出される資金の貸下げはほとんどなかった。
だが、その一方で、勘定方は会所を通じて札差の経営状況を把握し、また命令伝達機関として用いるなど統制・監視機関としても有用な存在であった。また、幕府も支援したとはいえ資金の中心は豪商達であり、幕府の支出は最低限に留めて、豪商達の資金を拠出させることで彼らの奢侈を抑制し、彼らの蓄財した金を市場に流通させる事で経済の活性化を図った。札差に対しては保護と資金統制という「飴と鞭」を与え、ひいてはそこから融資を受ける旗本・御家人の経営を保障するという、財政的な余裕の乏しい幕府にとっては好都合なシステムであった。それは、この会所が江戸幕府の崩壊まで継続し続けたことが裏付けている。  (wikipedia・猿屋町御貸付金会所より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション- 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」[絵図中央下・浅草御蔵左上の鳥越橋の次の橋が稲荷橋で、稲荷橋の左下に御改正会所(猿屋町御貸付金会所)が描かれている。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 浅草下谷本郷辺絵図 : 寛保延享之頃(1741 – 1748)」(コマ番号3/3・絵図四つ切左上「測量所」上に「町方会所」と描かれて、その右下に「稲荷橋」、「稲荷社」が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書 – 拾五之二」のコマ番号「2」の大川の下・御米蔵の右下天王橋(鳥越橋)の次の橋が稲荷橋で、稲荷橋の右上に町方会所地(猿屋町御貸付金会所)が描かれている。

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 拾五之三」のコマ番号「30」・寛政元年酉年(178年)之形左ページ下・稲荷橋左上に「町方会所地」と初記述され、コマ番号「37」まで記述されています。

カメラ南西方向が加賀美久米森稲荷神社で、カメラ位置付近に鳥越川が流れ稲荷橋が架かっていた。また、カメラ南南東方向に猿屋町御貸付金会所があった。

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