西町太郎稲荷神社

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マーカーは西町太郎稲荷神社です。

西町太郎稲荷神社
[西町太郎稲荷神社は、筑後国柳川藩立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、立花藩中(上)屋敷(当地)に建立されました。当町は、江戸時代万治年間、九州筑後柳川藩11万9600石の太守立花左近将監が江戸中(上)屋敷として設けた跡地であって、当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として同邸内の現在地に建立されたものです。諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁昌に御利益あらたかな処から江戸明治大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されてきております。現在も町内有志集って由緒ある当祠の維持運営に務め初午祭などが盛大に行われております。(境内掲示より)   (「猫のあしあと」より)]

[太郎稲荷神社は、柳川藩立花家の屋敷にあった神社です。柳川藩立花家の江戸屋敷は、上屋敷が下谷徒町、中屋敷が浅草鳥越、下屋敷が浅草末(下谷)にありました。中(上)屋敷にあったのが、「西町太郎稲荷神社」で、下屋敷にあったのが「太郎稲荷神社」です。
柳川藩立花家 
 立花氏は、九州の戦国大名大友氏の一門と言われます。豊臣秀吉の九州平定の際に、大友氏の先陣として活躍した立花宗茂は、その功により、筑後柳川13万石の城主となりました。 その後、関ヶ原の戦いの際に西軍に味方した立花宗茂は、柳川を追われ、かわって柳川に田中吉政が入封しました。しかし、田中家が改易されると、20年後の元和6年(1620年)、再び立花宗茂が城主となり、以後、明治維新まで、立花家が柳川を治めました。明治維新の際に多くの大名が東京に移り住む中で、立花家は、柳川に留まり、第二次世界大戦後には、16代当主の 立花和雄氏が、立花家の別邸を利用し、料亭・旅館「御花」を始めました。そして現在も「御花」は、立花家17代宗艦氏三兄弟により経営されているとのことです。  (「気ままに江戸-太郎稲荷神社(江戸屋敷にあった神社16)」より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図右中央に立花左近将監と上屋敷が描かれています。)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 浅草御蔵前辺図」(絵図中央付近に立花飛騨守中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「十四之二[3] – 2/3、3/3」(絵図中上に佐竹右京太夫と描かれています。)、「十四[206] – 149~153/206」(絵図左下に立花飛騨守の上屋敷が描かれています。)、「拾五之二[2] – 2/2」(絵図中央付近下に立花左近将監中屋敷が描かれています。)

カメラ北方向が西町太郎稲荷神社です。

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