鎌倉街道(下の道)

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    北倉庄一主宰の「街道を尋ねて」を参考に鎌倉街道(都区内Aルート)のルート設定とルートに近接する「Google Earth で街並み散歩」の「江戸編」と「東京の坂道編」で取り上げたポイントを表示してみました。
    ルート設定には「街道を尋ねて」を主にしていますが、「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」、「葛西筋御場絵図」、「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室) 」、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕]、「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」を参考に設定してみました。

    「街道を尋ねて」では、鎌倉街道(下の道)の都内のコースは丸子の渡し付近から始まり、江戸時代に出来た六郷用水の出会いで、洗足池方面(洗足坂上まで、旧中原街道と重なる)と六郷用水沿を通り、池上本門寺参道前を通り旧池上通りを北上する、二つのルートに想定しているようです。

    洗足池方面ルート
    旧中原街道/六郷用水分岐点から北東方向に進みます、東光院前を通ると桜坂にかかります、この坂は福山雅治の「桜坂」で有名になりましたが、古くは沼部の大坂と言われ難所だったようです。次に、田園調布陸橋を潜り現在の中原街道を北東方向に進み、呑川を渡り洗足池に至ります。
    洗足池について、wikipediaでは、下記の通り記述されています。
    『この地域の古い地名は「千束」(せんぞく)であって、その名は平安時代末期の文献にも見られる。のちに、身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となった。千束八幡神社(せんぞくはちまんじんじゃ)は、洗足池の西のほとりに鎮座する神社である。「旗挙げ八幡」とも呼ばれる。860年(貞観2年)に千束郷の総鎮守として宇佐八幡から勧請された。10世紀前半の平将門の乱の際に鎮守副将軍として関東へ派遣された藤原忠方は、その後に千束八幡を氏神としてこの地に残り、池上姓を名乗ったという。また、11世紀前半の後三年の役では、奥州討伐へ向かう源義家が戦勝を祈願したと伝えられている。1180年(治承4年)、安房国から鎌倉へ向かう途中の源頼朝がこの地に宿営したところ、池に映る月のような姿のたくましい野生馬が現れこれを捕らえたとの伝承が残る。後に宇治川の先陣争いで佐々木高綱を乗せ、梶原景季の磨墨と競うことになる、名馬「池月」である。頼朝軍はこれを吉兆とし、旗を差し上げ大いに喜んだという。』
    洗足池前を通り洗足坂上で中原街道と分かれ、東方向道路(長原商店街、北馬込本通)を進みます。「江戸御場絵図」では、旧中原街道は相州道と、洗足坂上からの分岐は稲毛道と描かれています。
    品川区の「江戸時代の道 第9回」では、稲毛道について下記の通り記述しています。
    『江戸時代の稲毛道は、橘樹郡 (たちばなぐん)稲毛領 (いなげりょう)へ続く道でした。当時の稲毛領は57ヵ村で構成され、登戸の渡しより川崎のあたりまでをいい、かなり広い地域をさしていました。概ね多摩川と鶴見川の支流矢上川 (やがみがわ)に挟まれた地域で、現在の川崎市多摩区・宮前区・高津区・中原区および横浜市港北区の北部あたりになります。(品川は橘樹郡の隣で荏原郡に属していました)
    現在、品川区内で稲毛道をしめす道標は、大井一丁目24番の清護稲荷 (せいごいなり)神社境内に1基(天保九年銘題目供養塔)だけ残っています。この道標は高さ123cmの角柱型で、天保9年(1838)に、池上道と稲毛道の分かれ道に建てられたものです。この道標は元の位置より移動され稲荷神社(※現在は廃社・道標は残る)入り口にある鳥居の左脇にあります。道標正面には池上本門寺四七世日教上人による題目が刻まれ、右側面には、「右 稲毛道 中延マテ (まで)十八里 千束マテ (まで)廿五町」、左側面には「左 池上本門寺マテ1里」、背面には、造立年月日と造立信者15名の名が刻まれています。池上本門寺に参詣する信者を対象に、品川宿や日本橋の法華 (ほっけ)信者が造立したことがわかります。
    品川宿方向から稲毛道への主な道筋は、道標に記された道と、稲毛道の別名をもつ池上道の2つあります。1つ目は、道標から右に立会川に沿うように馬込村を通って中原街道に達し、丸子の渡しを経て稲毛領へ至る道です。この道は馬込村を通ることから馬込道とも呼ばれていました。』
    稲毛道を進み、天保二年銘道標伊藤博文公墓前を過ぎ、東海道新幹線下、JR横須賀線踏切りを横断し光学通りに入ります。念仏供養道標(元禄八年銘道標・西大井)前を通過して、大井三ツ又地蔵前に出ます。ここで、六郷用水方面からのルートと合流します。

    六郷用水沿・池上本門寺参道前・旧池上通りルート
    旧中原街道/六郷用水分岐点から南方向に進みます、旧六郷用水沿い洗い場跡密蔵院前を過ぎ、歴史物語 女堀(おなぼり)案内板前に着きます。ここは、六郷用水工事の難所で、女堀の言われの一つに、作業に女性を動員し、男女が力を合わせて能率を上げたことから呼ばれるとされています。
    女堀を過ぎ、先に進むと環八通りにいったん出ます、増明院参道前の鵜の木八幡下交差点で左折、歴史物語 光明寺大門前の堰と水車案内板を過ぎ、再度環八通りに出ます、この藤森稲荷前交差点東側に歴史物語 下丸子への分水口跡案内板があり、交差点北西方向が光明寺参道になります。
    光明寺は、天平年間(729~749)に行基(668~749)が開創、のち弘仁年間(810~824)に、空海(774~835)が再興して、関東高野山宝幢院と称したと伝えられる名刹です。寛喜年間(1229~1232)になって、浄土宗西山派の祖、善慧証空(1177~1247)が再興して浄土宗にかわり、関東弘通念仏最初の道場となり、大金山宝幢院光明寺と称するようになりました。
    藤森稲荷前交差点先で左折し、進むと、六郷用水 南北引き分け跡案内板があります。この地点で、池上・新井宿方面への六郷用水北堀と、蒲田・六郷方面への六郷用水南堀とに分流されました。これより先は六郷用水北堀跡を進みます。東急東上線千鳥町駅北踏切りを渡って進むと、遊歩道となり千鳥いこい公園入口角に六郷用水の跡碑があり、さらに進み、第二京浜国道を横断すると警視庁池上警察署があります。警視庁池上警察署南側を通り進むと、左側に馬頭観世音菩薩があり、池上文化センター前交差点に出ます。ここから先、旧池上通り(旧平間街道)になります。
    旧池上通り(旧平間街道)を進むと、江戸時代の享保年間(1716~1735年)創業で十三代続いた、山本家相模屋・くず餅店がありましたが、平成30年1月20日閉店し、その跡に藤乃屋・くず餅店が営業を始めています。この角に元禄9年 旧池上道(平間街道)道標があります。その先が、本門寺前交差点で、この交差点北西角に、明治8年築造の万屋酒店、南西角に江戸時代創業の久寿餅・池上池田屋があり、道路北方向が池上本門寺になります。
    弘安5年(1282年)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸国(茨城県)へ向かい、9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着します。ここで、生涯最後の20数日間を過ごすこととなりました。同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名したのが池上本門寺の起源とされています。日蓮は同年10月13日に池上宗仲の館で病没し、10月15日にこの地で荼毘に付され、遺骨は遺言により久遠寺に納められました。1283年(弘安6年)に日朗(日蓮の弟子)の弟子九老僧の大乗阿闍梨本成院日澄に池上氏館の地共々寄進されて本行寺が開創されたとされています。
    本門寺前交差点を進み呑川に架かる浄国橋を渡ります。浄国橋周辺の六郷用水は水利上様々な工夫をしています。堤方の八寸では、水流方向に直角に八寸角の角材がいけこまれた「八寸の水はかり」と呼ばれた独特の方法で、水路を三方向に分水して、南方向の分水は女塚方面へ向かい、北方向の分水は一旦呑川に放流し堰で対岸に引水して、新井宿方面へ向かう流れになります。東に直進する水路は吞川に放流して、呑川の中央に築かれていた「中土手」と呼ばれた分水堤で分流され、東側は大森方面へ、西側は蒲田方面へ南下していました。
    浄国橋を渡り北東方向に進みます。旧新井宿周辺は大田区によりいにしえの東海道として、碑の整備がされています。新井宿春日神社を過ぎ、環七通りを渡ると池上通りに出ます。八景天祖神社八景坂を過ぎると、大森山王日枝神社円能寺があります。この付近から品川区にかけて縄文時代後期 – 末期の貝塚が出土し、大森貝塚に関する石碑は、品川区側の遺跡一帯に整備された大森貝塚遺跡庭園内と、大田区側の大森駅近くのNTTデータ大森山王ビル横の小道を線路側にはいったところとの2ヵ所にあります。 前者は横書きで右から「大森貝塚」、 後者は縦書きで「大森貝墟」と書かれていて、 貝塚碑は1929年(昭和4年)11月に、 貝墟碑は1930年(昭和5年)に相次いで建てられました。
    大森貝塚遺跡庭園前をさらに進むと、安和2年(969年)開創したとされる鹿嶋神社来迎院常林寺、延暦元年(782)開創したとされる光福寺、弘安9年(1268)に開創したとされる西光寺があります。その内光福寺、西光寺は池上通りには向いていません。
    国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [6]拾六下」のコマ番号5/5・絵図右端に立会川が描かれ、池上道に中立会橋、その西側に上立会橋、東側に下立合橋(Google Maps)が描かれています。また、「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」で絵図を北向きに設定して、四つ切右下に、池上道の右に下立合橋への道筋が描かれています。
    品川区の「江戸時代の道 第6回」に下記の記述があります。
    『江戸の町から池上本門寺に向かう主要な道は、東海道を通り、南品川宿から大井村を通るいわゆる現在の池上通りに近い道でした。
    この南品川宿から池上道に合流する道筋はいくつもあったと考えられますが主な道筋は3つあり、その1つは南馬場から今のぜームス坂通りに近い道筋から立会川に架かる上立会橋を利用する今の池上道に合流する道筋で、道幅は3間(5.4メートル)でした。
    2つ目は青物横町から仙台坂、立会川の中立会橋を渡って大井三ッ又で今の池上通りに合流する道、3つ目は青物横町から伊達家下屋敷付近(旧仙台坂)を南に折れて、今の月見橋(下立合橋)を渡って西光寺・光福寺の前を通って来迎院付近で池上通りに合流する道です。』
    この、記述の3つ目が西光寺・光福寺への道(※月見橋手前まで現在の見晴通り)で、池上道の脇往還との位置づけにあったためと思います。また、この道には来迎院石造念仏講供養塔も設置されています。
    来迎院常林寺前を通りさらに進むと、池上道は大井三ツ又で洗足池経由の稲毛道と合流します。
    この先は「江戸御場絵図」を参考にして、上立会橋跡を通り、浅間坂(ぜームス坂)を下り、海蔵寺先、天竜寺山門前を左折し、享保二十一年銘道標前(日本ペイント㈱品川工場の入口)を通過して、東海道本線ガードを潜り、東海道新幹線、横須賀線、山手線ガードを潜り、居木橋で目黒川を渡ります。渡った先に、小関通りと御殿山通りがあり、御殿山通りを進みます。御殿山の坂を登り、御殿山通りが右折するT字を左折し北方向に進みます。この通りの左側は松江藩松平家下屋敷跡で、「大崎屋敷」もしくは「大崎苑(園)」と言われ、文化3年(1806)に隠居した松平治郷(不昧)は、大崎屋敷に住み名器蒐集とお茶三昧の余生を送りました。また、この屋敷地には地形を生かした庭園とともに趣向を凝らした茶室をつくり、11もの茶室が散在する一大茶苑となりました。屋敷地はソニー通りまでありました。
    ソニー通りに出て右折して、御殿山交番で左折し交番の東側の道を登ります。この坂道は品川領と麻布領(品川区と港区)の境界になります。この坂道の突き当りがグランドプリンスホテル新高輪になり、突き当たって左折、カトリック高輪教会を過ぎて右折します。カトリック高輪教会前には江戸の殉教者の顕彰碑があります。右折した先に高輪三丁目交差点があり、この交差点から先は中原街道になります。
    鎌倉街道(下の道)は虎ノ門まで中原街道と同じ道で、二本榎(一里塚称したと伝えられている。横関英一著「江戸の坂 東京の坂(全)」より。)通り、聖坂を抜け、三田三丁目から赤羽橋を渡り土器坂を上って、芝山内入口のところの榎坂下(四辻)に出ることになります。そこから虎ノ門を抜け、外務省(福岡藩黒田家上屋敷跡)と中央合同庁舎第2号館(広島藩浅野家上屋敷跡)間の霞が関にでます、この付近に奥州街道の関所として中世から東国の名所として広く知られていた関所があったとされています。また、江戸湊の整備前のこのあたりは日比谷入江と言われ、この付近は海岸線だったようです。

    wikipediaの日比谷入江の記述
    『入り江は江戸湾(東京湾)北西奥に、新橋付近を湾口として北に伸び、北端は現在の大手町にまで達した。そのやや南に、現在の丸の内1丁目から皇居外苑に入る和田倉門があったが、「和田」とは「ワダ(海)」を意味し、海に面した倉庫があったことに由来する。徳川家康の関東入国までは平川(現神田川)の河口であった(平川橋などにその名が残る。平川はのちに東回りに流路を変え日本橋川や外濠川となっていく)。
    現在も江戸前島と比べて地形が低くなっており、かつての位置を判別できる。日比谷濠や馬場先濠は日比谷入江の名残と言える。また、白鳥濠付近には汐見坂があり、日比谷入江を指す。』

    東京港の歴史(歴史紙芝居)|国土交通省関東地方整備局 東京港湾事務所」のページにわかりやすい説明がありましたので、コピーして貼り付けました。

    次に桜田門から皇居外苑に入り、坂下門前を通り、内堀通りに出て皇居外苑を抜け、大手門前を進み、平将門の首塚前に出ます。
    横関英一著 「江戸の坂 東京の坂(全)」に『滝沢馬琴の「兎園小説余禄」の中に、新井白石が安積覚兵衛に宛てた手紙が載っていた。それには西丸下の一里塚のことを、ちょっとばかり書いているので、引用してみたい。
    「当時も西の丸坂下御門内に、大きなる榎の木候。もとの一里塚と申伝候」
    江戸城の前の道路が(それもまだ城のでかないころのことではあるが。)、古い昔の奥州街道であり、鎌倉街道であったことは、おもしろいよ思う。』と記述されています。 
    平将門の首塚(たいらのまさかどのくびづか)とは、平将門の首を祀っている塚で、将門塚(しょうもんづか)とも呼ばれ、東京都指定の旧跡です。伝承では、将門の首級は平安京まで送られ東の市、都大路で晒されましたが、3日目に夜空に舞い上がり故郷に向かって飛んでゆき、数カ所に落ちたとされています。伝承地は数ヶ所あり、いずれも平将門の首塚とされていて、その中でも最も著名なのが、東京都千代田区大手町一丁目2番1号外にある首塚です。かつては盛土と、内部に石室ないし石廓とみられるものがあったので、古墳であったと考えられています。
    平将門の首塚前を過ぎると、日本橋川に架かる常盤橋があります。wikipedia・常盤橋 (千代田区)では下記通り記述されています。
    『元は「大橋」と称され、江戸城の大手門から浅草に直接向かう本町通り(現在の江戸通りの原型とされる)上に置かれていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。徳川家康による江戸の再整備後に日本橋が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は鎌倉や府中に、大橋を通る東の道は浅草を経由して奥州や房総に連絡していたと考えられている)。』
    常盤橋を過ぎ、金座(日本銀行)を迂回して、日本橋本町大伝馬町を通り、現在の江戸通りに出て、郡代屋敷跡先で、神田川浅草橋を渡り、浅草通り、雷門通りを抜け、本竜院(待乳山聖天)今戸橋跡橋場寺不動院前を通り、橋場の渡し(白髭橋)で隅田川を渡ります。
    墨田区に入り、「葛西筋御場絵図」と「今昔マップ on the web」を参考に荒川堤の右道をルートにしました。「葛西筋御場絵図」の橋場渡船場右の荒川堤から右に道が出て、その道先が水神社木母寺右で立石道と多聞寺方向への道に分かれています。「今昔マップ on the web」でも同様な路線が描かれています。
    白髭橋東詰交差点を北に進み、白髭公園前交差点で右折して、一筋目(墨田2丁目1-1地先)を左折北上します。正福寺前を通り、隅田2丁目交差点に出ます。この交差点で、立石方向と松戸宿方向に分かれます。

    立石道ルート
    隅田2丁目交差点を東方向に進み、荒川・綾瀬川を渡ります。荒川放水路は1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事で、ここにかって、古綾瀬川が流れその西側に、文治年間(1185-1190)源頼朝が奥州征伐に向かう際に戦勝を祈願、無事勝利した後に戦勝を感謝して創建したという若宮八幡宮、嘉禄元年(1225)に創建、当地は元葛西清重の居館とも言われている西光寺がありましたが、工事により荒川・綾瀬川の東に移転しました。
    立石道はほぼ東方向に直線になっていて、中川には新奥戸橋が架かっていますが、この橋は1932年 (昭和7年) 4月開通の橋で、この付近の中川は享保年間に新たに開削された部分で、新奥戸橋上流の奥戸橋付近に「奥戸新田の渡し」または「新渡」と呼ばれる渡船が明治時代に存在していました。
    この付近には、子育地蔵尊・馬頭観音・道しるべ立石の帝釈天 道標や奈良・平安時代には立石付近を横断していた古代の官道(東海道)の道標として転用されていたとされる、立石様があり、平安時代中期の長保年間(99~1004)に創建されたとされる熊野神社と、その別当寺として創建された南蔵院があります。
    奥戸橋からは「今昔マップ on the web」を参考に進みます。
    奥戸橋を渡り、新中川三和橋を渡り直進し、一時古道を通り、京成小岩駅前交差点で柴又街道を越えます、ここから上小岩遺跡通りとなります。京成本線京成小岩駅南踏切りを横断し、上小岩遺跡通り北小岩5丁目10地先で右折し、十念寺南前を通ります。次の角で右折し二筋目を左折、次の十字路を右折、T字路を左折、次の十字路を右折、次の十字路を左折し、突き当りを右折すると、左の建物南西角に「伊予田の観世音道石造道標」があります。元はT字の突き当りにあったと思われます。道標には「是よりあさくさくわん世おん(浅草観世音)道、伊与田(伊予田)村中」とあり、側面にはそれぞれ「右舟ばし迄三り(里)、いちかわ道」「左にいしく(新宿)道、いわつきぢおんじ(岩槻慈恩寺)迄七り」と刻まれています。また、来た道は観世音道と呼ばれていたようです。
    京成本線高架を潜り、北小岩北野神社前を通り、次の変則四差路を左折して築堤に進むと、小岩市川関所案内板があります。また、変則四差路南西方向に安永4年(1775)建立の御番所町の慈恩寺道石造道標があり、銘文は正面に「右せんじゅ岩附志おんじ道」「左り江戸本所ミち」、右側面には「左りいちかわミち」、左側面にも「右いち川みち」とあります。変則四差路南西方向には、旧伊予田村(北小岩3丁目)の開拓者篠原伊褖の墓と伝わる宝筐印塔がある宝林寺、小岩市川関所の役人を代々務めた中根氏の館の址に創建された本蔵寺があります。

    松戸宿へのルート
    このルートは「今昔マップ on the web」を参考に進みます。
    隅田2丁目交差点を東方向に進み、鐘ヶ淵通りを横断し、円徳寺横を通り、先に進むと、創建年代は不詳ですが、天徳年間(957-960)には現隅田川神社付近にあり、大鏡山明王院隅田寺と称していたといい、天正年間(1573-1591)に鑁海上人が本尊を毘沙門天として隅田山吉祥院多聞寺と改称したと伝えられる、多聞寺があります。道路はこの先で荒川放水路に遮られますが、荒川放水路築造前は古綾瀬川を越えて、現在の葛飾区堀切二丁目コミュニティ道路と接続していました。葛飾区堀切二丁目コミュニティ道路に迂回し進みます。葛飾区の起点付近には、堀切菖蒲園極楽寺(いぼとり地蔵)郷倉等があります。堀切二丁目コミュニティ道路、堀切二丁目緑道を通り、堀切天祖神社前を通ります。
    平和橋通りを横断し、宝町八幡神社の裏を通り、京成本線踏切り南側を通り、お花茶屋駅前交差点に出ます。お花茶屋駅東踏切りを渡り右折して線路北の歩道に入り、歩道に接続する北北東方向の道路を進み、水戸街道白鳥交差点を渡り、すぐの変則十字路の北北東方向道路を進みます。区立青戸中学校先の突き当りを左折、最初のT字を右折し、環七通りを横断し、法問寺前を通り、突き当りを左折します。観音寺手前T字交差で左折し、桓武平氏の流れをくむ葛西氏が鎌倉期に城館として築いたとされる、葛西城跡(御殿山公園・葛西城址公園)東側を通ります。一旦環七通りに出て、延命寺の西方向で左折し、平安末期天養2年(1145)僧弁証が創建し、往時は西青戸の大部分が境内だったとされる、宝持院前を通ります。亀青小学校西側を通り、再度環七通りに突き当たりますので、迂回して斜めに横断して環七通り北側の道路に出て、江北橋通り(旧日光街道)に出ます。そこを右折して進むと新宿の渡し(中川橋)です。新宿の渡しを渡った旧水戸街道は宝蓮寺前交差点で右折、西念寺前を通り、新宿日枝神社手前T字を左折、浄心寺先で左折し、その先で新宿小学校南交差点を北東方向に進み、地蔵菩薩石仏等十三体・八大龍神石碑の南側道路を進み、都道307号線に合流して、京成金町線踏切を渡り、常磐線ガードを潜り、その先で東金町六丁目コミュニティ道路に入ります。
    平安時代末期、元暦2年(1185年)創設の葛西神社西側を通り、光増寺前を通り、都道451号線に入り進むと、小合溜井取水路東端に金町関所跡の碑があります。
    小合溜井はwikipediaによると、「小合溜井は、江戸時代に作られた溜井の1つ。「溜井」とは、用水を確保するために河川を堰き止めて作った用水池である。古利根川(中川)の一部で1729年(享保14年)徳川吉宗指示の元、紀州藩出身の井沢弥惣兵衛が水害防止、及び灌漑用水を調整する遊水池として設けたものである。」と記述されています。
    江戸時代にはこの付近に関所があり、渡船により松戸宿に渡りました。

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