三宅坂

[坂の名前は、江戸時代、この坂の途中に三河国(現在の愛知県田原市田原藩・三宅家の上屋敷(現在の国立劇場周辺)があったことに由来する。当時はこの坂に沿って、三宅家のほかにも近江国彦根藩・井伊家上屋敷の広大な敷地(現憲政記念館国会前庭等)もあった。また、三宅家や井伊家の屋敷から坂道を挟んだ向かい側は江戸城の内堀(桜田濠)であるが、堀端に皀莢(さいかち)や橿(かし)の木が植えてあったため、「皀莢坂(さいかちざか)」、「橿木坂(かしのきざか)」の別名があった。明治には三宅家・井伊家の屋敷の用地は政府の手に移り、陸軍の中枢が三宅坂に沿って置かれた。坂道から一段高い台地になっている井伊家屋敷跡は参謀本部庁舎に転用され、戦前には「三宅坂」といえば「参謀本部」を指した。戦後、参謀本部跡地は国会用地に転用、最終的に東半分は公園化されて国会前庭と憲政記念館に、西半分は国会の観光バス駐車場などになり、一角には国有地を借地して日本社会党(現・社会民主党)の本部が建設された。三宅坂界隈は戦前と戦後で様相を一変させ、「三宅坂」は戦前の参謀本部から新たに国会の議席の多数を占めるようになった日本社会党を指す言葉として使われるようになった。一方、三宅家屋敷跡の側は米軍に接収されてGHQの将校が住むパレス・ハイツになった。パレスハイツの返還後、昭和40年代に国立劇場、最高裁判所が相次いで建設された。  (wikipedia・三宅坂より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図」(絵図四つ切左上に三宅土佐守上屋敷、井伊掃部頭上屋敷が描かれています、その上にサイカチ河岸と記述されています。)

国際日本文化研究センター – (内題)東京府武蔵国麹町皇城及永田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央左、陸軍省右の道が階段坂に描かれています。そこが三宅坂です。)

マーカーは、三宅坂の坂上です。

三宅坂上・カメラ南東方向が三宅坂で、カメラ西南西方向が国立劇場です。

三宅坂下・カメラ西北西方向が三宅坂です。

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