3.コットンの歴史

コットンの歴史
[コットン(木綿)の歴史は古く、木綿栽培の最古の痕跡は紀元前5000年頃で、メキシコ・テワカン渓谷で見つかっており、その種類はアメリカ栽培綿(ゴシピウム属 ヒルスツム・Gossypium hirsutum)です。現在栽培種には4大種と呼ばれる相互に異なる野生種に由来する栽培種の系統があり、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこのアメリカ栽培綿です。また、現存する最古の綿布は、インダス川流域のインダス文明最大級の都市遺跡・モヘンジョダロ遺跡(紀元前2500年 – 紀元前1800年・位置)から出土され、遺伝子研究によれば、この木綿はアフリカを起源にしているといわれています。インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていました。

古代ギリシャではアレクサンドロス3世(在位紀元前336年 – 紀元前323年)のころまで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌(Ta Indika)』の中でセレウコス朝(首都・アンティオキア位置)セレウコス1世(在位:紀元前312年 – 紀元前281年)に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えています。

コロンビア百科事典 第6版(Columbia_Encyclopedia)によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペイン(ローマ帝国・紀元前27年-330年)にもたらしたとされています。また、ムーア人によりスペイン(後ウマイヤ朝・756年 – 1031年)に木綿栽培法をもたらされたのは9世紀のこととされています。

イラン(ペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前550年 – 紀元前330年)までさかのぼります。しかし、正統カリフ(632年 – 661年)以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少なく、13世紀のマルコ・ポーロ(1254年 – 1324年)はペルシャの主要産品として木綿も挙げています。また、17世紀フランスの旅行家ジャン・シャルダン(1643年 – 1713年)はサファヴィー朝(1501年 – 1736年)エスファハーン(位置)を訪れ、その広大な綿花農場を紹介しています。

南米ペルーでは紀元前2400年のワカ・プリエタ遺跡から綿の織物の破片が発見されている。海岸沿いのアンコン(Ancon)の北方スーペ谷に残る大規模な古代アンデス文明カラル遺跡(紀元前3000年頃 – 紀元前2000年頃)では、ワタが栽培されて、布作りなどに利用されていました。
また、インカ帝国(1438年 – 1533年)以前の墓から木綿の布が見つかっていて、インカに先行するプレ・インカと呼ばれるモチェ文化(紀元前後 – 紀元700年)やナスカ文化(紀元前後 – 紀元800年頃)、シカン文化(750年 – 1375年頃)といった海岸に沿った文化の発達の基盤として ゴシピウム属 バルバデンセ[海島綿(カイトウメン)・シーアイランドワタ・ピマ綿・Gossypium barbadense]というワタ属の原生種の栽培があり、綿花を川の上流で栽培し、それを使って漁網を作り、海岸の漁村との交易に使ってたとされています。
バルバデンセ綿(Gossypium barbadense)の種の栽培化の最初の明確な兆候は、エクアドルグアヤス(Guayas)県の海岸にあるレアル・アルト(Real Alto)の集落遺跡に存在した初期バルディビア文化(紀元前4400年)と紀元前4200年まで遡る綿さやが見つかっているペルーの海岸沿いのアンコン(Ancon)に見られます。
バルバデンセ綿( Gossypium barbadense)の栽培は、南アメリカ全域に広まり、その後クリストファー・コロンブスが綿に遭遇することによって西インド諸島に広がりました。
コットンは1650年代になって、西インド諸島でアフリカ諸地域から強制連行された黒人奴隷(奴隷貿易)の従事によってプランテーション作物となり、バルバドス(Barbados・位置)は、綿を輸出するための最初の英領西インド諸島の植民地になっていました。英領西インド諸島の栽培綿が1786年、元英国北米植民地の、サウスカロライナ植民地(現サウスカロライナ州)とジョージア植民地(現ジョージア州)の沿岸の島々で栽培改良されてシーアイランドコットンとなります。また、ペルーでは1911年、フェルミン・タンギス(Fermín Tangüis) によって開発されたタンギス綿とピマ綿が栽培され、その内タンギス綿が今ではペルーの綿花生産量の75%を占めています。

木綿栽培の最古の痕跡を残すメキシコでは、近世に入り、アステカ帝国(1428年頃 – 1521年)を征服したスペイン人エルナン・コルテスが1519年にメキシコに上陸したとき、原住民は綿花を栽培し、綿織物の衣服を着ていたといわれています。

北ヨーロッパには、中世末期(1300年頃 -1500年頃)に木綿が貿易によってにもたらされましたが、それが植物性だということ以外詳しい製法は伝わりませんでした。ウールに似ていることから、北ヨーロッパの人々は羊のなる植物があるのだろうと想像したということです。1350年には、ジョン・マンデヴィルは「(インドには)枝先に小さな子羊がなる素晴らしい木が生えている。枝はとてもしなやかで、子羊が空腹になると枝が屈んで草を食むことができる」(14世紀にジョン・マンデヴィルが描いたワタの想像図)と書き記しています。この記述の起源は、紀元前5世紀の古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの本、『歴史』のペルシャ帝国(アケメネス朝)とギリシャの都市国家間の戦争の記述のなかに、『インドには羊毛の実をつける木があり、それは羊を超える美しさと素晴らしさだ。そして原住民はそれから布を作り身にまとっている。』との記述の誤った解釈にあると思われます。また、「バロメッツ(Barometz)は、黒海沿岸、モンゴル、ヨーロッパ各地の荒野に分布する。この木には、羊の入った実がなる。」と言う伝説の植物が生まれました。この考え方はヨーロッパ各地の言語での木綿の呼称に痕跡を残しています。例えばドイツ語では木綿を Baumwolle と呼ぶますが、Baumwolleには「木のウール」の意味があります。

インドは木綿の原産地といわれ、綿布は古くからインドの主要輸出品であり、ポルトガル王マヌエル1世(在位:1495年 – 1521年)の命により、1498年5月20日、ヨーロッパ人として初めてインドのカリカット(コーリコード・Kozhikode – 位置)に到着した、ヴァスコ・ダ・ガマに始まる大航海時代も主要輸出品の位置づけは変わりませんでした。インド綿布はルネサンス時代にヨーロッパにもたらされましたが、その軽さ、手触りの柔らかさ、あたたかさ、染めやすさなどによって爆発的な人気をよび、17世紀以後インドに進出したイギリス東インド会社はこの貿易によって莫大な利潤を得ました。カリカット港から輸出された綿布は特に良質で、この積出港の名がなまってキャラコとよばれました。イギリス帝国ではインド産キャラコによって綿織物に対する需要が生み出されましたが、1722年に東インド会社によるインド産綿布の輸入を制限・禁止したキャラコ禁止法によりキャラコの輸入は禁止されました。この措置は国内綿織物産業の保護策として働き、国産綿織物の躍進へつながりました。この綿織物を国内で安く大量に作りたいという動機が、イギリスの発明家ジョン・ケイ(1704年 – 1780年)の飛び杼(1733年)にはじまる技術革新を促し、産業革命の興起を招くこととなりました。1764年ハーグリーブス(1720年頃 – 1778年)がジェニー紡績機を発明、1771年リチャード・アークライト(1732年 – 1792年)が水力紡績機を開発、そしてこれらの特徴を併せ持ったサミュエル・クロンプトン(1753年 – 1827年)のミュール紡績機が1779年に誕生、これらを受けてエドモンド・カートライト(1743年 – 1823年)が蒸気機関を動力とした力織機を1785年に発明し、さらに生産速度は上がりました。これらの事により、イギリス帝国は綿輸入国から一気に世界最大の輸出国に転換しました。イギリス帝国は、イギリス東インド会社を通じて本格的にインドの植民地化をすすめ、ムガル帝国(1526年 – 1858年)を形骸化させていきます。1757年のプラッシーの戦いでイギリス東インド会社がフランス東インド会社ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリス帝国のインド支配は本格化します。このときイギリスは、インドを本国で製品を生産するための原料供給地並びに、自国の綿製品を売り込む市場と位置づけたため、インドの資源はイギリスに吸い取られ、産業革命を成功させた大量の良質な綿製品がインドに流入したため、極端なインフレ状態になり国内は混乱し土着の綿工業は急激に衰退しました。産業革命はインドの手工業者の職を奪い、腕利きの職人が大量に失業したため、ドイツの経済学者であるカール・マルクスによって「職工夫の骨でインドの平原が白くなった」と形容されたほどの惨状を呈しました。この過程で権力や財産を失ったかつての支配階層から、木綿工業の衰退による失業者まで、階層を問わず、また市民・農民の区別なく多くのインド人がイギリス帝国への反感を持つに至り、インド大反乱(1857年 – 1859年)への参加者の増加につながりました。インド大反乱は、“インドのジャンヌ・ダルク”と呼ばれた、インド中部にあったマラーター同盟の小王国ジャーンシー藩王国(Jhansi位置)の王妃ラクシュミー・バーイーの抵抗があったものの、失敗し、ムガル帝国の権威は完全に消滅し、反英勢力も衰退しました。イギリス帝国は、イギリス東インド会社に広大なインドの領土を託すことの限界であるとして、この反乱の全責任を負わせる形でイギリス東インド会社を解散させ、ムガル皇帝バハードゥル・シャー2世ビルマに流刑し、インドを直接統治することにし、1877年にはイギリス帝国のヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国の成立を宣言し、形式的にも本国政府がインドを統治することとなりました。

イギリスは植民地のプランテーションから原綿を購入し、それをランカシャーの工場で織物に加工し、製品をアフリカやインドや中国(香港および上海経由)といった植民地市場で売りさばくというサイクルを構築しました。1840年代になると、インドの木綿繊維の供給量だけでは追いつかなくなり、同時にインドからイギリスまでの運搬に時間とコストがかかることも問題となってきました。そのころアメリカで優れたワタ属の種が生まれたことも手伝って、イギリスはアメリカ合衆国西インド諸島のプランテーションから木綿を買い付けるようになっていきます。しかし、アメリカ合衆国では南北戦争(1861年 – 1865年)により、北軍が南部の港を封鎖したため、綿花輸出が激減しました。これは連合国側(南部)が意図的に輸出を減らしたという側面もあり、それによって主要輸出先であるイギリス帝国に連合国を承認させ、あわよくば戦争に介入してもらおうと考えた結果だったようです。しかし、イギリス帝国とフランスはエジプトの木綿へと目を向けました。

当時のエジプト(ムハンマド・アリー朝)は、豊かな農業生産力によって莫大な産出を誇る綿花が経済を支え、エジプト政府主導による近代化改革路線は形を変えて続けられていました。親ヨーロッパ的な2人の総督、サイード・パシャイスマーイール・パシャのもとでスエズ運河が建設されていました。イギリスとフランスはエジプトのプランテーションに多額の投資をし、エジプト政府(ムハンマド・アリー朝)のイスマーイール・パシャはヨーロッパの銀行などから多額の融資を獲得し、カイトウメン(海島綿・シーアイランドワタ・エジプト綿・ピマ綿・ Gossypium barbadense)の導入が始まりました。しかし、1870年代、南北戦争が終結してアメリカ合衆国産の綿花が国際市場に大規模に流入すると国際綿花価格の下落が引き起こされ、エジプト経済は大打撃を受けました。外債は瞬く間に膨張し、1875年にはスエズ運河会社株をイギリスに売却することを余儀なくされ、翌1876年、エジプト財政は破産し、財政部門は債権者である列強の管理下(植民地時代)に置かれることになります。

19世紀中ごろまでに綿花生産はアメリカ合衆国南部の経済基盤となり、”King Cotton” と呼ばれるようになり、綿花栽培作業は奴隷の主要な仕事となりました。アメリカ合衆国の奴隷制度は、イギリスがバージニア植民地に初めて入植したすぐ後に始まり、1640年代から1865年まで、現在のアメリカ合衆国領域内ではアフリカ人とその子孫が合法的に奴隷化されていました。アフリカ系アメリカ人奴隷による綿花生産は南部を豊かにしただけでなく、北部にも富をもたらしました。南部の木綿の多くは北部の港を経由して輸出され、1865年の南北戦争終結と奴隷解放宣言の後も、南部の経済基盤は綿花生産でした。南部では小作農が増え、解放された黒人農夫と土地を持たない白人農夫が裕福な白人地主の所有する綿花プランテーションで働いていました。綿花プランテーションでは綿花を手で摘む必要があり、多数の労働力を必要とし、収穫用機械が本格的に導入されるのは1950年代になってからです(それ以前の収穫機械は繊維を切り刻んでしまうという欠点がありました。)。20世紀初頭になると、徐々に機械が労働者を置き換え始め、南部の労働力は第一次世界大戦第二次世界大戦の間に漸減しました。今も木綿はアメリカ合衆国南部の主要輸出品であり、木綿生産量の大部分はアメリカ栽培種が占めています。

アメリカ南北戦争の勃発によるアメリカ産綿花の輸入減少は、ロシア帝国にも影響を与えました。当時のロシア帝国は紡績や織物といった木綿工業の成長が著しく、綿花の供給不足は大きな問題となりました。イギリスがエジプトからの輸入に切り替えた一方で、ロシアは国内で生産する道を模索し、その産地として併合して間もない中央アジアトルキスタンに着目しました。南北戦争後にはアメリカからの綿花輸入も復活したものの、1880年代以降はアメリカから導入したワタの品種改良や灌漑農法によって国内生産量を増やし、1915年にはロシアが必要とする綿花の7割近くをトルキスタンが供給するまでに成長しました。一方、綿花栽培の中心地となったフェルガナ盆地では、人手や資金を必要とする綿花栽培が急激に拡大したことによる農民の経済的困窮や、綿花への転作によって地域的な飢饉が発生するなどの社会不安も生じたました。しかし、中央アジアでの綿花栽培はソ連時代にも拡大を続け、ソ連から独立したウズベキスタンは21世紀現在も世界有数の綿花生産国となっています。
綿花はウズベキスタンで最も生産量の多い農業製品であり、2006年時点において輸出額の約17%を占めています。ウズベキスタンは世界第6位の綿花生産国であり、世界第2位の綿花輸出国ですが、国内の食の安定供給や単一作物生産(モノカルチャー) に頼った農業経済の危険性のため、ウズベキスタンでは次第にその農業の軸足を綿花から穀物へと移しています。このような農業形態の変更のもう一つの要因としては、環境面の変化があげられます。ウズベキスタン国内では綿花栽培のために灌漑や人工授粉による収穫量の増加政策を大規模に展開した結果、アラル海は急激に縮小し、周辺地域は塩害などの著しい土壌汚染に悩まされています。また、ウズベキスタンでは、強制児童労働が綿花農業における問題点として指摘されています。

日本、中国、韓国で古くから栽培されてきた綿花はゴシピウム属 アルボレウム(デシ綿・Gossypium arboreum)で、現在、商業生産されているのは、インド北部、パキスタン、バングラデシュ、ミャンマーです。中国への伝播は、吐蕃(チベット)・タリム盆地を経由して唐(618年 – 690年、705年 – 907年)に伝わり、晩唐(9世紀中 – 10世紀初頭)頃から栽培され、代(1271年 – 1368年)には各地に広まりました。明朝(1368年 – 1644年)では洪武帝(朱元璋・在位1368年 – 1398年)の奨励もあって、中国全土に普及し、とくに明朝中期以降、綿花栽培は江南デルタ地帯松江を中心に飛躍的な発展を遂げました。このように長江下流域で、綿織物や絹織物が盛んになったのは代(960年 – 1279年)以降この地が”蘇湖(江浙)熟すれば天下足る”といわれた中国最大の穀倉地帯であるため、重い税や小作料を負担させられた農民が、その支払いのために副業として始めたからでした。とくに木綿は大衆の衣料として需要が高まり、そこから得る収入が農民の家計を助け、(1644年-1912年)代には「南京木綿」として広州からヨーロッパに、またシベリア東部のキャフタを通じてロシアに輸出(1727年・キャフタ条約)されました。

朝鮮半島へは1364年に文益漸(1329年 ‐ 1398年)が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されています。1363年元に使節の随員として派遣された彼は、帰国の際に木綿の種子を持ち帰り、郷里で舅の鄭天益とともに栽培し、糸車・糸繰り・織布の技術や用具も学んで、しだいに苧麻(カラムシ)麻布にかわって綿布を広く普及させていきました。しかし、李氏朝鮮(1392年 – 1910年)の太宗期(1400年 – 1418年)になるまで産地形成に至りませんでした。

日本へは799年(延暦18年)三河国[愛知県西尾市天竹町(てんじく=天竺)と言われるが、『日本後紀』には三河国としか書いてない]に漂着した崑崙人(現在のインド。真偽・詳細は不詳。天竹神社の項目参照。)によってもたらされ栽培が開始されましたが、この綿種は高温地綿種であったため日本での栽培には適さず、9世紀頃には廃れたといいます。主にこの後、綿は(1368年 – 1644年)や李氏朝鮮からの輸入に頼ることになり、その為、長い間高級品でした。
室町幕府3代将軍の足利義満は、1401年(応永8年)に、博多商人肥富と僧祖阿を明へ遣明使として派遣し、彼らは翌年に明の国書を持ち帰国する。明使の在日中に靖難の変永楽帝が即位すると、明は再び国書を送り、日本と明の間に国交と通商の合意が成立し、日明貿易(1401年~1549年)が始まり綿布が入ってきました。
また、その当時、日本の南北朝時代(1336年 – 1392年)から室町時代(1336年 – 1573年)には、朝鮮の高麗(918年 – 1392年)から李朝においては倭寇(前期倭寇)と呼ばれる海賊、海上勢力が、中国沿岸や朝鮮半島沿岸を荒らしていました。明国と李朝は室町幕府に対して倭寇の禁圧を求め、こうした要請を受けて、室町幕府は、3代将軍の足利義満が倭寇を鎮圧しました。義満は朝鮮へ使節を派遣し、制限貿易でしたが日朝貿易が行われることになります。
李朝の対日綿布の輸出は太宗18年(1418年)、吉見昌清、島津元久、平満景らの使者に綿布325匹、琉球王国の使者に綿布351匹与えたのが公貿易の初見ですが、成宗朝(1469年~1494年)になると激増していきます。李朝にとって公貿易は利益を産み出すものではなく国庫を圧迫する要因となっていました。当時の日朝貿易における日本側の輸出品は胡椒・丹木・朱紅・銅・金等で、朝鮮側の輸出品は綿布で、李朝は綿布の国庫備蓄が底をつくことを恐れ、1488年に綿布の交換レートの引き上げを行い、1494年には金・朱紅の公貿易禁止、1498年には銅の公貿易も禁止します。こうした交易の制限を巡る軋轢が繰返される中、対馬国守護宗氏は不満を募らせ三浦の乱(サンポのらん)の一因となっていきます。その当時、朝鮮半島南部に三浦(釜山浦薺浦塩浦)と呼ばれる日本人居留地が存在し、宗氏を始めとする西日本諸勢力は三浦を拠点に李朝に通交をしていました。1510年に発生した三浦の乱により、日本と李氏朝鮮との通交は断絶し、通交再開の条件として李氏朝鮮王朝側が一方的に突きつけた壬申約条で再開しますが、その後日朝貿易は衰退していきます。

日本で綿栽培が始まったのは、明応3年(1494年)越後国で実綿の流通記録が発見されたのを始め、16世紀初頭から16世紀末期にかけて東日本の各地で綿の栽培を窺わせる記録が発見されており、遅くとも16世紀初頭にも遡れると思われます。また、永正7年(1510年)で興福寺大乗院に残っていた「永正年中記」に年貢180文の分として「三川木綿」をとったとして記されています。戦国時代後期からは軍需物資として綿布の需要とともに全国的に綿布の使用が普及し、三河などで綿花の栽培も始まり、江戸時代に入ると急速に栽培が拡大し、各地に綿花の大生産地帯が形成され、特に畿内の大阪近郊などにおいて生産が盛んになっていきます。木綿問屋も形成され、綿花産業は大きな産業となり、綿を染める染料のや綿花栽培に欠かせない肥料となる干鰯などの関連産業も盛んとなりました。
明治(1868年 – 1912年)以降、政策により綿布の生産が強化されたこともあり、1930年代には綿布の輸出量が世界一となりました。ただし、両税廃止運動などを通じて安い原料が日本に入るようになり、日本の綿花栽培は衰退します。第二次世界大戦時は綿布の輸出は停止しましたが、戦後復活し、再び世界一になりました。しかし、その後は安価なアジア産の綿布に押され、生産量は減少しています。また、綿花栽培は個人やグループ単位での生産はありますが、統計上の国内自給率は0%となっています。

  (wikipedia・木綿キャラコワタ属カラル遺跡Gossypium_barbadense大航海時代産業革命プラッシーの戦いインド大反乱ラクシュミー・バーイーウズベキスタンの農業日明貿易日朝関係史三浦の乱Gossypium_herbaceumより、コトバンク・ワタキャラコ禁止法 とは文益漸より、明代・清代② – Ne、綿花の品質(3)-気候風土の違いで品質・品種もバラエティー … – 繊研新聞、李朝の綿作の動向と対日織物貿易及び 日本の初期綿作の特質について、婦人服の大丸株式会社 – 三河木綿についてより)]

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