4-3. タンザニアにおけるオーガニックコットン

●bioReタンザニアの2012 年のオーガニックコットンの収穫量

『種つき綿花が1万トン越えの勢いです。(綿花の種を分離して繊維にすると3千トン位になります)
これは雨のお蔭です。通常、雨季は11月から2月まででその後は降らずに乾燥します。(南半球は、11月に種まき、6月に収穫)
そして3月からの雨がいつまで続くかどうかでコットンの収穫量が決まります。今年(2012年)は、3月中旬から5月中旬まで雨に恵まれ、このような記録的な豊作が予想されています。1エーカー(4000㎡、1200坪)当り313kgのオーガニックコットンがとれていて、昨年(2011年)の177kgの76%増ということになります。また、このオーガニックプロジェクトに参加する農業者の数も1944から2078へと増えています。これは綿花の売り渡し価格が高く、良い収入が見込めるからです。そして一農家当り平均で2.5エーカー、綿の栽培に充てますが、今年は14エーカーに作付けを増やしています。これらのようないくつもの好材料が重なった上のうれしい結果が見えています。今後も収穫量は増えてゆくものと見られていますが、農業者にとっては、生活がかかっているので、綿花価格が下落すると栽培を縮小してしまいますので収穫量を維持するのは難しいものです。そこでbioReプロジェクトでは、上乗せ価格で買い取り、農業者が安心してコットンを栽培できるようにしています。bioReプロジェクトでは、地域で一番高い買取価格を維持する努力を続けています。一般の綿花栽培農家は、農薬を高値で買わせられ、収穫した綿花は厳しく買い叩かれ、結果として収入が落ち込み貧困に喘いでいます。bioReプロジェクトは、これらの苦境にある農業者をオーガニック綿に転換させて、フェアトレード精神をもって貧困から救済することを目的にして1991年から運営されています。  (「3 | 10月 | 2012 | お知らせ・レポート – 日本オーガニックコットン流通機構」より)]

●タンザニアオーガニック・コットンの取組紹介サイト

スイスのリーメイ(Remei)社の取組「biore Foundation Remei AG」 – 「株式会社パノコトレーディング」の取組「bioRe(ビオリ)プロジェクト」、「無印良品」の取り組み「スクマコットン」- タンザニアのbioRe「BioRe Tanzania」

●タンザニアの歴史的出来事

「タンザニア独立運動指導者であり初代大統領であるジュリウス・ニエレレは、マジ・マジ反乱の例を常に引用し、その精神を受け継ぐことを促すとともに、その失敗を繰り返さないよう戒めた。」(wikipediaより)とされ、タンザニアの歴史において、『マジ・マジ反乱』は忘れえぬ1ページであり、wikipdia・マジ・マジ反乱から下記の通り抜粋しました。

[1880年代のヨーロッパ列強によるアフリカ分割の後、ドイツ帝国は公式に認められたアフリカ植民地に対する支配力を強めた。ドイツのアフリカ植民地にはドイツ領東アフリカ[後のタンガニーカ(タンザニアの大陸部)、ルワンダブルンジおよびモザンビークの一部]、ドイツ領南西アフリカ(後のナミビア)、ドイツ領カメルーン(後のカメルーンおよびナイジェリア東部)およびドイツ領トーゴランド(Togoland・後のトーゴおよびガーナ東部)があった。その中でもドイツ領東アフリカにおける支配力は当初比較的弱く、アブシリの反乱ムクワワが率いるヘヘ族(Hehe people)の抵抗などがあったが、その頃から植民地政府は現地民支配のために厳しく弾圧的な方策を採ることにより領内全域に渡る要塞システムの維持・管理を行っていた。
1898年、ドイツ植民地政府は人頭税の徴収を始め、道路建設やその他様々な事業において過酷な強制労働を課した。1901年、植民地総督にグスタフ・アドルフ・フォン・ゲッツェンが就任すると、農業を中心とした経済開発に力を入れた。しかし、ヨーロッパ人が多く入植していた北東部では労働力不足に悩まされ、農業生産の拡大ははかどらなかった。1902年、ゲッツェンは換金作物として綿花に目をつけ、南部でその共同栽培を行うことを命じ、村々は共同の綿花畑(プランテーション)を開墾させられた。綿花栽培には村の成人男性が徴用されたが、年間28日と定められていた作業日数はしばしば延長され、少ない賃金で働かされた。この男性徴用は非常に不評で(彼らは自分たちの畑の農作業もしなければならなかった)、多くの村民は単に土地を耕すことを拒否したか、あるいは納付を拒否した。郡長(アキダ)や村長(ジュンベ)は栽培の管理を任され、労働期間の延長を強要するなどの役目を負わされたため人々の怨嗟の対象になった。1905年、この地域で旱魃が発生すると、それが政府の農業・労働政策への反発と結びつき、7月の反乱勃発の誘因となった。
現地民のドイツ人入植者に対する反感は募っていったが、同時にドイツ人を恐れてもいた。そのような中、ドイツ領東アフリカ東南部、ルフィジ川(Rufiji River)南岸のマトゥンビ高地に、蛇神ボケロの使者ホンゴに憑依(ひょうい)されたと唱える霊媒師キンジキティレ・ングワレ(Kinjikitile Ngwale)が現れ、ボケロや憑依により交信した先祖からによるものとする預言を説き、預言により製法を伝えられたとする、ドイツ人の弾丸を液体に変えるという“秘薬”を与えた。そしてボケロの言葉としてドイツ領東アフリカの民はドイツ人を排除するよう命じられたと訴え、密かに各部族の団結と反乱勢力の結集を呼びかけた。この“秘薬”は水(マジ)にひまし油雑穀の種を混ぜたものだった。やがてキンジキティレは自らをボケロと称し、彼に仕える者をホンゴと呼び、彼の元にはドイツ領東アフリカ東南部の多くの人々が巡礼に訪れた。キンジキティレは巡礼者にマジを与え、ホンゴをキンジキティレの教えを伝えると同時にマジを配る使者として周辺各地へ派遣した。1905年中頃にはマトゥンビおよびキチ高地とその近隣のほとんどがキンジキティレの信者となっていた。
1905年7月、マトゥンビ高地ナンデテ村のマトゥンビ族(Matumbi people)住民が徴税に反発し綿花の木3本を引き抜いたことにより反乱は始まった。この蜂起はキンジキティレの指示したものではなかったが、反乱はまたたく間に拡大し、6週間後にはダルエスサラームおよびキロサ以南の全域が反乱地域となっていた。キンジキティレの信者達は、藁を額に巻き、(火薬で大きな音を出すだけの)おもちゃのピストル、槍および矢(毒矢も使用)といった、貧弱な武器しか持たずに蜂起したが、人数だけは多かった。反乱が発生してまもない8月4日、キンジキティレは植民地政府により逮捕され、モホロで絞首刑に処された。8月28日にニヤンガオに着いた反乱軍はキリスト教伝道所を襲った。伝道所破壊の知らせは8月31日にゲッツェンのもとへ届き、ゲッツェンは兵力不足のため一時的にムウェラからの撤退を命じ、ドイツ本国へ増援を要請した。本国では最初増援を拒否したが、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はただちに2隻の巡洋艦海兵隊を派遣するよう命じ、他に遠くニューギニアからも増援部隊が送られた。1905年10月末にドイツから1,000名の正規軍が到着した。
反乱は逐次鎮圧され、多くのリーダーたちは捕まるか、逃亡先で殺害されるか、あるいは自害した。南西部で最後まで抵抗しテロ活動を続けたリーダーも1908年5月と7月にそれぞれ射殺され、3年におよぶ反乱は終了した。
マジ・マジ反乱やそれによる飢饉のため、南部の現地民は多くの人々が死亡したか、あるいは故郷を逐われた。死者はドイツ側が15名のヨーロッパ人、73名のアスカリ、および316名の補助要員だったのに対し、現地民側の詳細は不明であるが、20万から30万人に上ると推測され、おそらく反乱地域の総人口の3分の1に相当したと言われている。ゲッツェンはマトゥンビ族の半数が死んだと考えており、ある宣教師はパングワ族の4分の3以上が死んだと考えている。南ウサンガラでは1906年後半になるとまったく過疎化しており、ウンゴニでは1908年4月まで食物が通常どおり収穫されることはなかった。
南部ウンギンド台地では、長い飢饉が終わり生き残った人々が故郷に帰ってみると、トウモロコシ畑や綿花プランテーションは低木の森に覆われており、その森にはまもなくサイスイギュウあるいはゾウが住み着いた。第一次世界大戦後、その地は世界でもっとも大きな自然保護区の一つ「セルース猟獣保護区」となり、1982年、世界遺産に登録された。
キンジキティレ・ングワレはタンザニアの英雄として人々から尊ばれており、2006年2月にタンザニアのルヴマ州ソンゲアにて、「マジ・マジ反乱100周年記念集会」が催された。]

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