ダブリン市庁舎

マーカーはダブリン市庁舎です。

ダブリン
[2世紀のアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスの文献にエブラナとしるされている地が現在のダブリンとされる。住民であるケルト人は291年、レンスター軍との戦いで勝利をおさめた。ダブリンのアイルランド語の名称ブラー・クリーは、この勝利のあとにつけられた名称と考えられている。
ダブリンは、アイルランドの歴史の中でしばしば重要な役割をはたしてきた。450年ごろにパトリキウスによってキリスト教に改宗する。9世紀半ば頃、リフィー川から攻め上がってきたノルマン人ヴァイキングが、ここにあったケルト人の町を破壊して城砦を築き、これをゲール語で「黒い水たまり」を意味する「ドゥヴ・リン」Dubh Linn と呼んだのが町の英名の由来とされている。現在のダブリン城の地下にはその当時の遺構がうかがえ、またこの城の裏の庭がそのかつて「黒い水たまり」と呼ばれていた地域である。
これにつづく3世紀の間、アイルランドの住民はデーン人からたびたびダブリンを奪回した。1171年、デーン人イングランドヘンリー2世(在位:1154年 – 1189年)にひきいられたアングロ・ノルマン人によって追放された。ヘンリー2世は翌1172年にダブリンに宮廷をおき、ここをイングランドの都市ブリストルの属領とした。こうしてダブリンはイングランドのアイルランド支配の拠点となったが、1534年に反乱がおき、アイルランドの愛国者フィッツジェラルドが一時支配した。
17世紀、イギリスのピューリタン革命(1638年 – 1660年)の間、ダブリンはクロムウェルの議会派勢力に包囲された。1798年のアイルランド民族主義組織ユナイテッド・アイリッシュメンの蜂起に際してはダブリン攻略の試みは失敗し、1803、47、67年にも蜂起がくりかえされた。1916年(イースター蜂起)と19~21年のアイルランド蜂起では、ダブリンははげしい戦場となっている。
歴代のアイルランド王や有力者、またアイルランドを植民地支配したイングランドもダブリン城に行政の拠点を置き、アイルランド独立にいたるまでアイルランドの行政と政治の中心であった。現在も、市の中心部のメリオン通りおよびメリオン・スクエア周辺にアイルランド共和国政府の議会や主要官庁が立ち並び、アイルランドの政治・経済・文化の中心として栄えている。  (wikipedia・ダブリンより)]

Dublin City Council – Google Map 画像リンク

カメラ位置はウッドキー(Wood Quay)で、カメラ南方向がダブリン市庁舎です。

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