アルバラシン(スペイン語: Albarracín)は、スペイン・アラゴン州テルエル県のムニシピオ(基礎自治体)。
古い市街は山のすそ野に築かれ、その全体をほぼトゥリア川(別称・グアダラビアル川)が囲んでいる。北はアルバラシン山地、南はウニベルサレス山地(Montes Universales)である。
町は断崖の上に築かれ、周囲をトゥリア川が囲む。町の内部では通りは険しく狭いが、赤みを帯びた建築様式が特徴的な、絵のような光景が広がる。町は二つの地区に分けられている。旧市街は鎌状に湾曲した川の上につり下がるように形成されており、郊外は川岸に広がっている。
鉄器時代には、ケルト系のロベタノ族が定住していた。彼らは、重要な洞窟壁画に松かさを描いた絵画を残している。ローマ時代には明らかにロベトゥムと呼ばれ、西ゴート王国時代にはサンタ・マリア・デ・オリエンテ(Santa María de Oriente)と呼ばれた。
イベリア半島のイスラム支配時代(アンダルス)、ベルベル人の一族アル=バヌ=ラジンは、アルバラシン周辺のわずかな土地を集めアルバラシンのタイファをつくった。これが現在の地名のもととなった(アル=バヌ=ラジンとは、バヌ・ラジン(Banu Razin)の子孫という意味)。このタイファはのちにキリスト教徒軍のレコンキスタに屈し、事実上カスティーリャ王国に属した。1170年以降アラゴン王国が領有し、最終的にはアルバラシン司教座が設置された。
カスティーリャの有力貴族ララ家(Casa de Lara)は、アルバラシンの支配を目論んだ。アラゴン王ハイメ1世時代(在位:1213年 – 1276年)の1220年、ペドロ3世時代(在位:1276年 – 1285年)の1285年に侵攻が失敗に終わると、1300年にアルバラシンのアラゴン領が確定した。これら一連の政治的・軍事的対立が、アルバラシンの防衛システムやその強化を促進させた。
ハイメ1世がセゴルベ地方を征服するまでアルバラシン司教座が置かれていたが、後にカステリョン県の都市に移管された。
1257年6月21日、ハイメ1世はテルエルにおいて、アルバラシンにフエロ(特権)を授けた。 (wikipedia・アルバラシンより)]
スペイン内戦中、町では共和党軍(マヌエル・アサーニャ率いる左派の共和国人民戦線政府(ロイヤリスト派))と反乱軍(フランシスコ・フランコを中心とした右派の反乱軍(ナショナリスト派))との間で戦闘が起こり、双方の間で住民の支配が何度も入れ替わった。1937 年 7 月に共和党の攻撃が町に起こり、戦時中町で最大の戦争となった。 7月8日、共和党は素早い攻撃で市庁舎と大聖堂を除く町を制圧した。以前避難していた軍人と民間人は依然として包囲されたままだった。反乱軍は援軍を送ることで反応し、7月13日にはなんとか町を奪還して共和党軍を追放した。
この町は 1961 年から国定記念物(Monumento nacional)になっています。 1996 年の美術功労金メダル(Medalla de Oro al Mérito en las Bellas Artes)を受賞しており、その歴史的遺産の美しさと重要性が評価され、ユネスコによって世界遺産に登録されることが提案されています。
アルバラシンのパノラマ
写真初期設定右にアルカサル・デ・アルバラシン、スクロールするとアルバラシン大聖堂、アルバラシンの城壁が確認できます。 (wikipedia・Albarracínより)
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