アルベロベッロ(イタリア語: Alberobello)は、イタリア共和国プッリャ州バーリ県にある、人口約1万1000人の基礎自治体(コムーネ)。
「トルッロ」と呼ばれる伝統的な家屋が約1500軒あることで知られている。白壁に円錐形の石積み屋根を載せたこの家屋は、16世紀から17世紀にかけて開拓のために集められた農民によって造られたものである。かつてこの地方に広く見られたトルッロ群(複数形で「トルッリ」)が多数現存し、住居や店舗として利用されている景観は貴重であり、「アルベロベッロのトゥルッリ」は1996年に世界遺産として登録されている。
地名の Alberobello は、「美しい樹」を意味する。この土地の中世の名 silva arboris belli に由来する。
アルベロベッロは、21世紀初頭の現在も約4分の1の建物がトゥルッリであり、ヴァッレ・ディトリアのトゥルッリ文化の中心地となっている。
世界遺産として登録されている地域は、アイア・ピッコラ地区(Aia Piccola)とモンティ地区(Monti、「リオーネ・モンテ地区」とも)である。アイア・ピッコラ地区には1030軒、モンティ地区には590軒のトゥルッリが現存する。
アンドレア・マッテオ3世の子孫であるジャンジローラモ2世 (it:Giangirolamo II Acquaviva d’Aragona) (1600年 – 1665年、コンヴェルサーノ伯在位: 1626年 – 1665年)は、Guercio delle Puglie の名で知られ、勇猛な武人、有能な荘園経営者、芸術家のパトロン、そして暴君として多くの逸話が語られる人物である(最後の約20年は暴政を理由として国王に逮捕・幽閉され、スペインで客死した)。ジャンジローラモ2世はしばしばこの地に狩猟を催して滞在した。1620年、ジャンジローラモ2世は、この地に製粉所、パン屋、宿屋を建てさせ、町の拡大がはじまった。
もともと石灰岩質のこの地方では、先史時代から石灰岩を住居に用いる方法が発展してきた。モルタルなどの接合剤を使わずに石灰岩の切石を積み上げ(乾式工法 (Dry stone) )、石灰(漆喰)に塗って仕上げたトゥルッロ(「部屋一つ屋根一つ」の意)は、農民たちの厳しい生活環境に応じて入手しやすい材料で作られ、気候風土に合った形で発展を遂げたものである。一方で、農民の家は解体しやすいよう簡易に建設することが領主によって命じられていたともいう。理由としては2つあり、1つは反抗的な農民への見せしめ、もう1つは課税対策である。
ナポリ王国のスペイン人総督(ナポリ王は1700年までスペイン・ハプスブルク家が王位を継承し、ナポリに総督が派遣されていた)に納める税を逃れる意味合いがあった。1700年まで効力があった Pragmatica de Baronibus によれば、新たな町の建設には王の認可が必要で、領主は王宮に税を納めなければならなかった。このため、取り壊しをしやすいような家屋を建てさせ、王の監督官が視察に来る際に領民に命じて取り壊させていた、というのである(実際、1644年のナポリ王国の徴税官の報告に、徴税を妨害するための家屋解体が行われたと記載されている)。
なお、トゥルッロの簡易な構造と節税とを関連させる話としては、「『漆喰で塗装された屋根のある家』が課税対象であったため、徴税人が来る際に住民が屋根を取り壊した」という話も伝えられている。 (wikipedia・アルベロベッロより)
アルベロベッロ駅、アルベロベッロ・バス停留所、トルッロ・ソヴラーノ、聖コスマとダミアン教会(Saints Cosma and Damian’s Church)、カーサ・ダモーレ(Casa D’Amore)、地域博物館「ハウスペッツォーラ」、アイア・ピッコラ地区(Aia Piccola)、サンタルチア展望台、リオーネ・モンティ(Rione Monti)地区、トゥルッロ・シアメーゼ(双子のトゥルッリ)、5つのトゥルッリが並ぶ「モンテ・ペルティカ通り」、聖アントニオ教会