ジョン・レノン生育の家(メンディップス)

マーカーはジョン・レノン生育の家です。

[ジョン・レノンが5歳から二十数年過ごした家(結果として、彼の生涯で最も長く過ごした家)、通称「メンディップス」(Mendips)も、レノンの死後も、ナショナル・トラストに管理される形で保存されており、門の前は観光客の写真スポットとなっている。そしてレノンのこの家から徒歩数分の距離には「ストロベリー・フィールド」(Strawberry Field)という名の孤児院の跡地が残っているが、これは楽曲「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」(Strawberry Fields Forever)のモチーフになった場所である(レノンはここを「大人になることから逃れられる場所」として思い描いていたとする評論家もいる)。  (wikipedia・リヴァプールより)]

[5歳の時、ジョンは母ジュリアの姉、ミミおばさんことメアリーの家に引き取られた。ジュリアが再婚にあたって都合が悪かったという事情らしい。美術学校時代の少しの間を除いて23歳でロンドンへ出て行くまで、ジョンはずっとこの家で暮らした。彼が生涯で最も長く暮らしたこの家はいつか人手に渡っていたが、結局、2002年に妻としてヨーコ・レノンが買い上げ、ナショナル・トラストに寄贈され保存管理されることになった。  (「大特集 ビートルズと英国 / リバプールを歩く|WEBマガジン e-days …」より)]

Mendips – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向(門前に二人の自転車)がジョン・レノン生育の母親の姉・メアリー(ミミ伯母)の家です。

[ジョン・レノンは1940年10月9日(18時30分)、第二次世界大戦ナチス・ドイツによる空襲下に置かれたリバプールで誕生。出生時、父親のアルフレッドは商船の乗組員として航海中で不在、母親のジュリアも他の男性と同棲していたため、母親の姉・メアリー(ミミ伯母)夫婦のもとで育てられた。ミドルネームのウィンストンは、当時のイギリスの首相のウィンストン・チャーチルから。1946年、父親のアルフレッドが帰国し、父親に引き取られ数週間一緒に暮らすものの、母親のジュリアがジョンを連れ戻すが、母親と暮らすことはできず、再び、ミミ夫婦のもとで育った。父親も行方不明になった。
1952年9月にグラマー・スクールのクオリー・バンク校に入学した。1955年に父親代わりだったミミの夫・ジョージが死去。
1956年のある日、エルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴き、ロックンロールの洗礼を受ける。この頃ジュリアが近くに住んでいる事を知ったジョンは、ジュリアの家へ行き来するようになった。ジュリアはジョンにバンジョーのコードをいくつか教え、音楽へと関心を向けさせた。
1957年、処女作・「ハロー・リトル・ガール」を作曲(この曲は1962年にデッカのオーディションの際に歌われ、「ザ・ビートルズ・アンソロジー1」で公式に発表された)。
3月、クオリー・バンク校で、ビートルズの前身であるスキッフルバンド「クオリーメン」を結成した。 7月6日、ウールトンのセント・ピーターズ教会で行なったクオリーメンのコンサートで共通の友人(アイヴァン・ボーン)の紹介によりポール・マッカートニーと出会う。数日後、ポールはクオリーメンのメンバーになった。エルヴィス・プレスリー、チャック・ベリーバディ・ホリーと言ったアメリカのロックンロールに夢中になった。
1958年2月、ポールの紹介でジョージ・ハリスンのクオリーメンへの加入を認めた。
1958年7月15日、母・ジュリアは非番の警察官が運転する車にはねられ死去。この母・ジュリアの死は、ジョンのその後の人生に大きな影響を与え、またすでに(1956年 14歳の時)母親を乳癌で亡くしていたポールとの友情を固める要因にもなった。
1958年9月、ジョンはクオリー・バンクを卒業後、同校校長の取り計らいでリヴァプール・カレッジ・オブ・アート(Liverpool College of Art)に入学する。そこで最初の妻となるシンシア・パウエルと出会った。 1959年1月、バンドのメンバーはジョン、ポール、ジョージ3人だけになる。この後しばらく、ドラマーはパートタイマーが続いた。  (wikipedia・ジョン・レノンより)]

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