クレオパトラの針

マーカーはクレオパトラの針です。

クレオパトラの針
[クレオパトラの針とは、19世紀にロンドンパリニューヨークに移され、立てられた3つの古代エジプトオベリスクである。ロンドンとニューヨークのものは元々は対だったもので、パリのものは別の場所から移された(対の片方は元の場所にある)。いずれも古代エジプトの本物のオベリスクだが、クレオパトラ7世とは何の関係もなく、彼女の生誕より千年以上も前に作られたものである。例えば、ロンドンのものはエジプト第18王朝トトメス3世の時代に作られたものだが、「クレオパトラの針」と呼ばれている。パリのものが最初にエジプトから移され、最初に「クレオパトラの針」と呼ばれた。
ロンドンのものは、シティ・オブ・ウェストミンスターのビクトリア堤防(Victoria Embankment)上、ハンガーフォード橋の近くにある。すぐ近くに地下鉄のエンバークメント駅がある。エジプトスーダンを統治していたムハンマド・アリーが、ナイルの海戦(1798年)でのホレーショ・ネルソンの勝利とアレクサンドリアの戦い(1801年)でのラルフ・アバークロンビーの勝利を記念して、1819年にイギリスにオベリスクを贈ろうとした。イギリス政府はこの好意を歓迎したものの、ロンドンまでの輸送にかかるコストが膨大となるため辞退した。
オベリスクは1877年までアレクサンドリアに残っていたが、著名な解剖学者で皮膚科医のウィリアム・ジェームス・エラスムス・ウィルソン(William James Erasmus Wilson)卿がロンドンまでの輸送コスト約1万ポンドの提供を申し出た。約2000年間埋まっていた砂から掘り出され、長さ28メートル、直径4.9メートルの巨大な鉄製の筒に格納された。この筒はジョン・ディクソンという技術者が設計し、Cleopatra と命名された。実際この容器には船首と船尾、2つのビルジキール、帆を張るためのマスト、甲板室が設置された。これをそのまま洋上に浮かべて船とし、Olga という別の船でロンドンまで曳航することになった。
ビスケー湾を航行中の1877年10月14日、嵐に遭遇し Cleopatra が激しく揺れ、保持できなくなった。Olga から6人の志願者と救命艇を送ったが、その救命艇は転覆し、6人は行方不明となった(この6人の名はクレオパトラの針の土台にある青銅製の銘板に刻まれている)。そこで Olga のブース船長は同船を Cleopatra に横付けし、Cleopatra のカーター船長と5人の乗組員を救助した。ブース船長は Cleopatra を放棄し、同船は沈没したと報告したが、4日後にスペインのトロール船が漂流している同船を発見。そこでグラスゴーの蒸気船 Fitzmaurice を回収に向かわせ、修理のためスペインフェロル港に運び込んだ。Fitzmaurice の船主はフェロルを発つ前に5000ポンドを支払うよう要求したが、交渉の末回収費用として2000ポンドを支払うことになった。William Watkins Ltd のデビッド・グルー船長が指揮するタグボート Anglia がテムズ川まで Cleopatra を曳航することになった。河口に到着した1878年1月21日、テムズ川河口の町グレーブセンドでは小学校が休みになったという。オベリスクの木製の模型が国会議事堂前に置かれたこともあったが、その場所への設置は拒絶され、最終的に1878年9月12日、ビクトリア堤防の上に設置された。
1878年にこのオベリスクを立てる際、台座の前の部分にタイムカプセルが埋め込まれた。中には、当時最も美しいとされたイギリスの女性たちの写真12枚、ヘアピン1箱、葉巻1箱、タバコ用パイプ数点、当時のヤード・ポンド法に基づく重量原器、哺乳瓶、玩具、剃刀、建築用の油圧式ジャッキやケーブル、オベリスクの青銅製模型、英国硬貨のセット、ルピー硬貨、ビクトリア女王の肖像、このオベリスクの辿った数奇な運命を記した文書、羊皮紙に書かれたオベリスクの図面、表面に描かれたヒエログリフの翻訳、いくつかの言語に翻訳された聖書、ホイッティカー年鑑(Whitaker’s Almanack)、ロンドンの地図、当時の新聞などが入っている。
クレオパトラの針を挟むように、エジプト風のスフィンクスのブロンズ像が2体設置されており、添えられたヒエログリフは netjer nefer men-kheper-re di ankh (the good god, Thuthmosis III given life) と刻まれている。スフィンクス像はクレオパトラの針の方を向いており、守っているというよりも見張っているように見える。付近のベンチにもスフィンクスの装飾が施されている。第一次世界大戦中の1917年9月4日、ドイツ軍の投下した爆弾がクレオパトラの針の近くに落ちた。この出来事を忘れないため爆弾の痕跡は修理されず、右側のスフィンクスの台座には榴散弾でできた穴がそのままになっている。
クレオパトラの針(ロンドン)・wikipedia-photo、ロンドンへ輸送するために鉄製容器に格納する準備をする様子 (1877年)・wikipedia-photo、ロンドンでクレオパトラの針を立てる作業をしている様子(1878年8月)・wikipedia-photo、ロンドンのクレオパトラの針・wikipedia-photo、「ロンドンのクレオパトラの針に隣接するスフィンクス像の1つ。台座に第一次世界大戦中の空襲の跡がある。」・wikipedia-photo  (wikipedia・クレオパトラの針より)]

クレオパトラの針 – Google Map 画像リンク

カメラ東南東方向がクレオパトラの針で両サイドにスフィンクス像が設置されています。

クレオパトラの針前のカメラで、カメラ西南西方向が台座右端に第一次世界大戦中の空襲の跡があるスフィンクス像です。

クレオパトラの針前のカメラで、カメラ北北西方向が北側のスフィンクス像です。