サマセット・ハウス(コートールド・ギャラリー)

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[Google アートプロジェクト] – 「サマセット・ハウス(コートールド・ギャラリー)

サマセット・ハウス(英語:Somerset House
[サマセット・ハウスはイギリスロンドンテムズ川を望むストランド地区南側にある大規模な建物である。中央部は新古典主義建築で、1776年縲鰀1796年の建築家ウィリアム・チェンバーズによる大規模な建築プロジェクトであった。その後南北に古典主義的なヴィクトリアン・ウィングを増築。もともと同名の建物がこの地に建てられたのは当時より200年以上前のことであった。現在はさまざまな政府関連機関、芸術・教育関連機関が入っており、ロンドン大学付属のコートールド・ギャラリー等がその代表的な例である。 また中庭は冬季、アイススケートのリンクになり、ロンドンの冬の風物詩になっている。
サマセット・ハウスの中庭・wikipedia-photo、クリスマス時期の中庭のスケート・リンク(2004年)・wikipedia-photo  (wikipedia・サマセット・ハウスより)]

コートールド・ギャラリー (英語:Courtauld Gallery)
[コートールド・ギャラリーとは英国ロンドンのウェストミンスター地区にある美術館。厳密にはロンドン大学附属コートールド美術研究所 (Courtauld Institute of Art) の美術館であり、サマセット・ハウス内に設けられている。比較的小規模なギャラリーであるが印象派後期印象派のコレクションは非常に質が高い。
1932年に実業家のサミュエル・コートールド(Samuel Courtauld)のコレクションを元に設立された。コートールドは当時まだあまり注目されていなかった印象派を中心に収集していた。その後いくつかの個人コレクションを加えて現在の形となった。
『聖母子』(1525-1527) パルミジャニーノwikipedia-photo、「『フォリー=ベルジェールの酒場』(1882) エドゥアール・マネ」・wikipedia-photo、「『カード遊びをする人々』 (1892-95) ポール・セザンヌ」・wikipedia-photo、「『ネヴァモア』(1897) ポール・ゴーギャン」・wikipedia-photo、「『アンブロワーズ・ヴォラールの肖像』(1901) ピエール=オーギュスト・ルノワール」・wikipedia-photo  (wikipedia・コートールド・ギャラリーより)]

サマセット・ハウス – Google Map 画像リンク

カメラ南南東方向がサマセット・ハウスです。サマセット・ハウスのストリートビューです。

カメラ南南東方向が、サマセット・ハウスです。

サマセット・ハウス(コートールド・ギャラリー)のストリートビューです。

フィンセント・ファン・ゴッホ作『耳を切った自画像(Self-Portrait with Bandaged Ear)』(1889年1月)

[1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
『先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
— 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日』
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだった弟テオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]

フィンセントファンゴッホ作『花の桃の木』(1889年4月)

[1月20日、ジョゼフ・ルーランが、転勤でアルルを離れなければならなくなり、ファン・ゴッホは、親友を失った。ファン・ゴッホは、テオに、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたと書いている。しかし、2月に入り、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、2月7日、近所の人が警察に対応を求めたことから、再び病院の監禁室に収容された。2月17日に仮退院したが、2月25日、住民30名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出された。2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された。警察署長は、関係者から事情聴取の上、3月6日、専門の保護施設に監禁相当との意見を市長に提出した。
ファン・ゴッホは、3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた。「厳重に鍵をかけたこの監禁室に長い間、監視人とともに閉じ込められている。僕の過失など証明されておらず、証明することもできないのに」と憤りの手紙を送っている。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ。
そんな中、3月23日、画家ポール・シニャックがアルルのファン・ゴッホのもとを訪れてくれ、レー医師を含め3人で「黄色い家」に立ち入った。不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった。しかし、シニャックは、パリ時代に見ていたファン・ゴッホの絵とは異なる、成熟した画風の作品に驚いた。ファン・ゴッホも、友人の画家に会ったことに刺激を受け、絵画制作を再開した。外出も認められるようになった。
病院にいつまでも入院していることはできず、「黄色い家」に戻ることもできなくなったため、ファン・ゴッホは、居場所を見つける必要に迫られた。4月半ばには、レー医師が所有するアパートを借りようという考えになっていたが、1人で生活できるか不安になり、あきらめ。最終的に、4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの療養所に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル市立病院より)]

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