ホワイトホール宮殿跡

マーカーはバンケティング・ハウスです。

ホワイトホール宮殿跡(バンケティング・ハウス)
[ホワイトホール宮殿 (Palace of Whitehall) はロンドンに存在した宮殿。1530年から1698年まで王室の居住地として用いられた。大半は火災により焼失し、イニゴ・ジョーンズによって設計されたバンケティング・ハウスのみが現在も残っている。当時の宮殿は部屋数1500におよびヨーロッパ一の規模を誇っていた。
宮殿は北をノーサンバーランド・アヴェニュー、南はダウニング・ストリートからダービー・ゲイト、西側は現在のホース・ガーズ、東はテムズ川河畔に囲まれた広大な地区を敷地としていた。総面積は23エーカー (93,000 m²)にも及ぶ。 現在の英国の政治の中心であるホワイトホールにその名を留めている。
13世紀に入り、ウェストミンスター宮殿がイングランド統治の中心として機能するようになり、王も1049年からこの宮殿に居住していた。この周囲の地域は貴族の所有する邸宅が設けられていた。ヨーク大主教ウォルター・ド・グレイは1240年に敷地を買収してヨーク・パレスという館を建設した。
ウェストミンスターで建築工事が行われる期間に国王エドワード1世(在位1272年 – 1307年)はしばしばヨーク・パレスに滞在した。15世紀に入り枢機卿トマス・ウルジーは館を拡張し、ロンドンにおいてはランベス・ハウスと並ぶ規模の大邸宅が完成した。1530年に枢機卿がヘンリー8世(在位:1509年 – 1547年)により解任されると、国王はヨーク・パレスを買収してこの館で居住するようになった。この際婚約者のアン・ブーリンを伴って枢機卿が残した財宝を調べ歩いたとされる。
ヘンリー8世はその治世を通して宮殿の改築を行っている。リッチモンド・パレスに影響を受け、ボウリング場、テニスコート、闘鶏場、馬上槍試合場などが建設された。1540年代には30,000ポンドが改築の費用として計上されている。ヘンリー8世はこの宮殿において1533年にアン・ブーリンと、1536年にはジェーン・シーモアとそれぞれ結婚し、1547年に自身が死去している。
ジェームズ1世(在位:1603年 – 1625年)もまた宮殿の拡張を行い、1622年にはイニゴ・ジョーンズの設計によるバンケティング・ハウスを完成させた。建物の装飾は1634年にチャールズ1世(在位:1625 – 1649年・1649年に宮殿前で斬首された)の命により、サー・ピーテル・パウル・ルーベンスの設計で完成した。1650年の時点ではイングランド最大の建物であり、部屋数は1500に及んでいた。建物群は不規則に配置されており、ジャングルのような様相を呈していたため、宮殿というよりも街に似ていた。
1691年および1698年に発生した火事によって宮殿の大半は焼失した。経済的な問題によって再建は断念され、18世紀に入ると敷地跡にはタウン・ハウスが建設されるようになった。
「ヘンドリック・ダンケルツによるホワイトホール宮殿の描写。左にバンケティング・ハウスが見える。」・wikipedia-photo

[1680年の建設計画]    (wikipedia・ホワイトホール宮殿より)]

バンケティング・ハウス – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向がバンケティング・ハウスです。

バンケティング・ハウスホールのカメラです。

バンケティング・ハウスホール階上回廊のカメラです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*