ロンドン・ウォール

マーカーはバービカンエステートの石造りの上部構造物です。

ロンドン・ウォール
[ロンドン・ウォール (英: London Wall) は、紀元後2世紀頃からローマ人によりロンディニウムの周辺に作られた防御壁であり、その後18世紀まで維持された。ロンディニウムは現在のロンドンを流れるテムズ川沿岸にあり、ローマ人にとって戦略的に重要な港町であった。
現在では、セント・マーティンのル・グランド通りがアルダースゲート通りにぶつかるロタンダ・ジャンクションとワームウッド通り (Wormwood Street) の間の、古い壁に沿って走っているシティ・オブ・ロンドンの道路の名前となっている。中世後期までは、この壁がシティ・オブ・ロンドンの境界線となっていた。


ピンク色の部分は1666年のロンドン大火で焼失した地区

ローマ人の壁
ロンドン・ウォールが建設された正確な理由は明らかになっていないが、2世紀後半か3世紀初頭には建てられたようである。これは紀元後120年の都市要塞建設の80年後で、都市の新しい壁の一部とするために北と西の壁は厚くなり高さは2倍になった。建設は少なくとも4世紀終わりまで続けられ、410年にローマ人がブリテン島 (当時の呼称は”ブリタニア“) から撤退する前の最後の主要な建設事業となった。建設の理由は、180年代にハドリアヌスの長城を越えたピクト人による、ブリテン島北部への侵略と関係していたのかもしれない。当時のブリテン島の統治者クロディウス・アルビヌスローマ皇帝としての継承権を主張して自身の権力を強化した、2世紀後半に起きた政争と関係していた可能性もある。アルビヌスはライバルのセプティミウス・セウェルスと戦い、197年フランスリヨン近くのルグドゥノムの戦い (Battle of Lugdunum)で戦死した。壁の建設とセウェルスが行った次のロンディニウムに経済的繁栄をもたらした。
ローマ人の後の利用
ロンドン・ウォールの関門は、ローマ人の道路路線のネットワークと合わせられていた。東のラドゲート (Ludgate) から西のオールゲート (Aldgate) までのオリジナルの関門は、時計回りに、ラドゲート・ニューゲート (Newgate) ・クリップルゲート (Cripplegate)・ビショップスゲート (Bishopsgate) ・オールゲートである。ニューゲートとクリップルゲートの間にあるアルダースゲート (Aldersgate)は350年に追加された。クリップルゲートとビショップスゲートの間にあるモーゲート (Moorgate)はさらにあと、中世に入って建てられた。
ロンドン・ウォールの長さと大きさは、ローマ人のブリテン島における建設事業の中で最大のものの一つとなった。完成した壁は関門と塔と防御溝を備えており、ケンティッシュラグストーンで作られていた。ラグストーンはメードストン近くの採石場から小舟で運ばれた。約 130 ヘクタール (330 エーカー) の面積を囲むのに、3.2 キロメートル (2 マイル) の長さが必要だった。幅は 2.5 メートル (8 フィート 2 インチ) から 3 メートル (9.8 フィート) 、高さは 6 メートル (20 フィート) だった。外壁の前の溝は深さ 2 メートル (6 フィート 7 インチ) 、幅は 5 メートル (16 フィート) だった。ロンドン・ウォールの東側の区間には約 64 メートル (20 フィート) の間隔で少なくとも22の塔があった。
3世紀後半にロンディニウムがサクソン人海賊に何度も襲われた後、280年に追加で河川側の壁の建設が始められた。
都市のアクティビティーが劇的に増加した950年頃まで、ロンドンがゆっくりと成長するのにつれて、ロンドン・ウォールは修復された。994年にロンドンを攻撃したヴァイキングの大軍隊は、敗北を喫した。
中世の間ロンドンは成長を続け、町はロンドン・ウォールを超えて開発された。
1666年9月のロンドン大火で、ロンドン・ウォールの内側の中世のロンドンの町は、ほとんどが焼失した。その後シティ・オブ・ロンドンへの7つの関門には数多くの修理と再建が施されたが、1760年から67年までの間に全て取り壊された。19世紀まで壁を壊す作業が続けられたが、壁の大きな部分は他の構造物に組み込まれた。第二次世界大戦中のロンドン大空襲で爆撃被害を受けた町に残された、最も大きな建物のいくつかは、ロンドン・ウォールの残骸だった。残っている壁は数少ない (しかし重要である) が、そのうちいくつかはロンドン博物館の庭、バービカン・エステート(Barbican Estate)、タワー・ヒルの周辺、ノーブル通り (Noble Street) やセント・アルフェジ教会 (St Alphege London Wall)で見ることができる。またロンドン・ウォールの一部が、現代の建築物の壁の一部や基礎部分になっているものもあり、その場合はそれらの建物の内側からしか見ることはできない。最も巨大で最もアクセスが簡単な壁の断片の一つは、タワーヒル駅のすぐ外側に立っており、その前にはローマ皇帝トラヤヌスの像が立っている。
ロンドン博物館のある北部の壁沿いの道路の一部は、現在では緩やかに沿っているだけだが、”ロンドン・ウォール”” と名づけられて壁を記念している。現代の道路は、西側はアルダースゲートのロタンダ・ジャンクションからモーゲートを越えて東に走り、そこから壁の線と平行になって、ビショップスゲートに到達する前にワームウッド通り (Wormwood Street) になる。これは1957年から76年の間に道路が再建された結果である。それ以前はこの道路は狭く、ワームウッド通りからウッド通りまで壁沿いを走っていた。壁の西の区画は現在、セント・アルフェジ教会 (St Alphege London Wall)になっている。
壁の堀は、ハウンズディッチ通り (Houndsditch)になっている。ここにはかつてロンドンの中心的なごみ処理施設があり、その悪臭で有名だった。その通りの名前は、16世紀の歴史家ジョン・ストウ (John Stow) によると、シティ・オブ・ロンドンから運ばれた汚物、特に大量の死んだ犬に関係している。16世紀の終わりまでには堀は全部ふさがれ埋められて、前述のとおり道路になった。
「バービカンエステート近くにある砦。13世紀の石造りの上部構造物を持つローマ時代の基礎の上に立っている。」・wikipedia-photo、壁と砦(Roman Fort Gate)・wikipedia-photo、タワーヒル駅近くにある紀元後3世紀に造られたローマ時代の壁の遺跡・wikipedia-photo、”ロンドン・ウォール”と呼ばれる現代の道路・wikipedia-photo  (wikipedia・ロンドン・ウォールより)]

Roman Fort Gate – Google Map 画像リンク」、「Barber-Surgeons’ Hall Tower – Google Map 画像リンク」、「City Walls and Tower – Google Map 画像リンク

ロンドン博物館北東方向・セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲート上空からの古代ローマ時代からの城壁(Roman Wall)跡。

カメラ南南西方向がバービカンエステートの石造りの上部構造物です。

カメラ北方向が壁と砦(Roman Fort Gate)です。