世界最初の地下鉄

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    パディントン駅エッジウェア・ロード駅ベイカー・ストリート駅グレート・ポートランド・ストリート駅ユーストン・スクエア駅キングス・クロス・セント・パンクラス駅ファリンドン駅

    [メトロポリタン鉄道(英語: Metropolitan Railway、単にMetとも)は、ロンドンで1863年から1933年まで運行されていた旅客・貨物鉄道である。その北へ伸びる本線は、経済的な中心地であるシティ・オブ・ロンドンから後にミドルセックス州の郊外となる地域を結んでいた。最初の路線は本線鉄道のターミナル駅である、パディントン駅やユーストン駅キングス・クロス駅をシティと結ぶものであった。鉄道は、ニューロード(New Road)の下をパディントンからキングス・クロスまで開削工法で、そしてファリンドンロード(Farringdon Road)の脇をキングス・クロスからシティに近いスミスフィールドまでトンネルと切通しで建設された。この路線が1863年1月10日に開通した際には、蒸気機関車がガス灯を灯した木造客車を牽いており、世界最初の地下鉄であった。
    19世紀前半には、ロンドンの人口と都市の広さは非常に拡大していた。住民が増加し、そして毎日列車で通勤する人も増えたことから、道路上は大変な数の荷車や馬車で埋め尽くされ膨大な交通量となり、ロンドンの経済的な中心であるシティ・オブ・ロンドンに毎日徒歩で入る人も20万人に達していた。1850年までには、ロンドン都心の周辺部に7つの鉄道のターミナル駅が存在していた。南側にはロンドン・ブリッジ駅ウォータールー駅、東側にはビショップスゲート駅(Bishopsgate railway station)、フェンチャーチ・ストリート駅、北側にはユーストン駅、キングス・クロス駅、西側にはパディントン駅である。フェンチャーチ・ストリート駅のみがシティ・オブ・ロンドンの範囲内にあった。
    シティ・オブ・ロンドンと鉄道のターミナル駅を結ぶ地下鉄道という考え方は、1830年代に最初に提案されていた。シティ・オブ・ロンドンで事務弁護士をしていたチャールズ・ピアソンは、いくつかの提案における主導者となっており、1846年には複数の鉄道会社が共同利用する中央駅を提案した。この提案は1846年に王立委員会により却下されたが、1852年にピアソンは、ファリンドンからキングス・クロスまでを結ぶそうした鉄道を建設するためのシティ・ターミナス会社 (City Terminus Company) の設立を支援することで、これを再提案した。
    ベイズウォーター・パディントン・アンド・ホルボーン・ブリッジ鉄道 (Bayswater, Paddington and Holborn Bridge Railway Company) は、グレート・ウェスタン鉄道のパディントン駅からピアソンの提唱路線にあるキングス・クロス駅までを結ぶために設立された。法案は1852年11月に提出され、会社は1853年夏にノース・メトロポリタン鉄道 (North Metropolitan Railway) という名で議会承認を受けた。一方シティ・ターミナス会社が提出した法案は議会で否決されてしまい、これはノース・メトロポリタン鉄道がシティへ到達することができなくなることを意味した。この問題を解決するために、ノース・メトロポリタン鉄道はシティ・ターミナス会社を合併の上で、1853年11月に法案を再提出した。
    会社の名前は再変更され、今回はメトロポリタン鉄道となった。ノース・メトロポリタン鉄道法は、1854年8月7日に国王裁可を受けた。路線の変更は1859年8月に議会承認を受け、これによりついに会社は建設すべき路線に見合った資金調達が完了して着工できることになった。
    建設は1860年3月に開始された。この新しい鉄道はパディントンからキングス・クロスまで、ほとんどが開削工法により建設された。キングス・クロスから東では、路線はマウント・プレザントおよびクラーケンウェルの下を728ヤード(約666 m)のトンネルで通過し、そこから暗渠化されたフリート川に沿ってファリンドン・ロードの脇をスミスフィールドにある新しい肉市場まで切通しで通った。
    トンネルを通すために掘られた溝は幅が33フィート6インチ(約10.2 m)あり、その中に煉瓦製の擁壁が構築されて、それが28フィート6インチ(約8.7 m)幅の楕円形の煉瓦アーチあるいは鉄製ガーダーの天井を支えた。トンネルは駅の部分ではプラットホームを収容するためにより幅が広くなっていた。原始的なベルトコンベアを利用した土砂運搬装置が掘削土砂を溝から運び出すために使われたものの、土砂の掘削作業のほとんどはナヴィ(Navvy)(土木工事に携わる作業員)によって手作業で行われた。
    建設工事がまだ行われていた1861年11月から試運転が行われた。全線を通しての初めての運転は1862年5月に行われ、この時の乗客の1人にウィリアム・グラッドストンがいた。1862年末までに工事は完成し、その費用は合計130万ポンドに達した。
    商務省(Board of Trade)による検査が1862年12月末に行われ、1863年1月初めに開通が承認された。信号設備のわずかな変更が行われてそれも承認され、数日に渡って運行試験が行われて1863年1月9日の開通を迎えることになった。この日にはパディントンからの開通記念列車が走り、ファリンドン駅では600人の株主と来賓のための大きな宴会が開かれた。チャールズ・ピアソンは1862年9月に亡くなっており、鉄道が開通するのを見ることはできなかった。
    この全長3.75マイル(約6 km)の路線は、翌1863年1月10日土曜日から一般営業を開始した。駅はパディントン(ビショップス・ロード)駅(現在のパディントン駅)、エッジウェア・ロード駅、ベイカー・ストリート駅、ポートランド・ロード駅(現在のグレート・ポートランド・ストリート駅)、ガワー・ストリート駅(現在のユーストン・スクエア駅)、キングス・クロス駅(現在のキングス・クロス・セント・パンクラス駅)、ファリンドン・ストリート駅(現在のファリンドン駅)があった。
    鉄道は歓迎されて成功し、初日には38,000人の乗客を輸送して、グレート・ノーザン鉄道の列車を利用して臨時列車が運転された。最初の12か月で950万人の旅客を輸送し、さらにその次の12か月では1200万人へと増加した。
    当初の時刻表では、途中の5駅に停車して所要時間18分であった。昼間閑散時間帯の運行頻度は15分おきで、朝のラッシュ時には10分おきに増発され、早朝と20時以降は20分おきに減らされた。1864年5月からは、パディントンから朝の5時30分および5時40分に出る列車については労働者向けの割引往復乗車券が片道乗車券と同じ3ペンスで発売された。  (wikipedia・メトロポリタン鉄道より)]