ハドリアヌスの寺院(アドリアーノ神殿)

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ハドリアヌスの寺院(アドリアーノ神殿)
[ハドリアヌスの寺院は、145年、ハドリアヌス(在位:117年 – 138年)の後継者で、彼の養子の息子アントニヌス・ピウス(在位:138年 – 161年)によって建てられた。現在は15メートルの高さコリント式円柱11本と内陣の一部が残っていてピエトラ広場の一画を形成している。
帝位継承から真っ先にアントニヌス帝が行ったのは先帝ハドリアヌスを歴代皇帝と同じく神に祭る事であった。この提案はハドリアヌス帝と対立していた元老院に反対されたが、アントニヌス帝は懸命に元老院を説得する事に努めて遂に元老院を説き伏せた。この行動は主君に対するピエタス(献身)であると賞賛され、元老院はハドリアヌス帝を神に祭るのと合わせて彼に「アントニヌス・ピウス(慈悲深きアントニヌス)」の称号を与えた。アントニヌスはハドリアヌス帝の路線をできる限り継承する事を望み、最初にハドリアヌス廟を139年に完成させ、残された先帝時代に予定された事業の完成を急いだ。
ローマ皇帝の業績を称える碑が多いローマにおいて、五賢帝の一人とされるハドリアヌスの巡幸を称える碑は見つかっていない。
一方、アントニヌスは帝国軍とは一貫して距離を置く事を志向した事で知られている。アントニヌス帝の20年以上に亘る治世で大規模な軍事遠征が行われた記録は一切残っておらず、軍に対する命令や記録も僅かである。
動乱の最中でもアントニヌス帝がイタリア本土を離れた事は一度としてなく、歴代皇帝の中でも特異な治世であった。属州での問題は全てそれぞれの属州総督に一任され、彼らは責務の見返りとしてより強い統治権を与えられた。アントニヌス帝は宮殿から総督達を統制する間接的な支配体制を作り上げ、皇帝の宮殿在住と広大化した帝国支配の両立を満たしたこの方法は後世において踏襲される事になる。
アントニヌス帝は学問や芸術・文化の保護に熱心で多くの劇場や神殿を建設し、学者達の報酬を引き上げさせた。またアントニヌス帝はユダヤ教のラビ(司祭)で高名な神学者であったイェフーダー・ハン=ナーシーの友人であり、彼が生涯の目標とした経典の編纂を帝国皇帝として後援した。アントニヌス帝は宮殿にイェフーダを招いて彼と問答を行ったという。
アントニヌス帝時代の記録は乏しい部分があり、23年間という長期間の治世に対して大規模な公共建築も残さなかった。だがその代わりに帝国の法体系(ローマ法)や行政制度の改革に熱意を注いだ。彼は革命的という程ではないものの、それまでのローマ法に重大な修正を加えようとした。帝国がラテン人を祖とする国家としてだけでなく、もっと多様な人々を糾合する多文化・多民族の国家に転身する必要を強く感じ、アントニヌス帝は市民権や奴隷制に関する大胆な改革を志した。  (wikipedia・アントニヌス・ピウスより)]

[神殿の現存サイドの柱廊・wipkipedia-photo、「1750年ジュゼッペ・VASIによる神殿の描画」・wipkipedia-photo、「1615年アロ・Giovannoliによる神殿の描画」・wipkipedia-photo、復元模型・wipkipedia-photo]

アドリアーノ神殿 – Google Map 画像リンク

カメラ南方向がハドリアヌスの寺院です。

ハドリアヌスの寺院内ホールのカメラです。現在はローマの証券取引所となっています。

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