カストラ・プラエトリア跡

マーカーはローマ国立中央図書館です。

カストラ・プラエトリア
[プラエトリアニの宿営地]

カメラ南西方向アウレリアヌス城壁内・(ウンベルト1世総合病院、ローマ国立中央図書館(ヴィットーリオ・エマヌエレII世国立図書館)の敷地にカストラ・プラエトリアがあった。

プラエトリアニ
[プラエトリアニ(古典ラテン語:praetoriani、プラエトーリアーニー)は、ローマ帝国において皇帝を守るために組織された直属の精鋭部隊である。日本語では「近衛隊」、「近衛軍団」、「護衛隊」、「親衛隊」などと訳される。アウグストゥス(在位:紀元前27年 – 紀元14年)による帝政開始とともに組織され、コンスタンティヌス1世(在位:306年 – 337年)によって解体された。プラエトリアニは帝政ローマにおいて、本国イタリアに駐屯することが許された唯一の軍事組織である。
アウグストゥスは帝政を創始すると、このような精鋭部隊は戦時だけでなく平時においても有効と考え、プラエトリアニを募るようになった。またアウグストゥスは、自分の身を守るためには何らかの組織が必要とは考えていたが、同時に共和政という体裁を保ったまま新たな元首政を作り上げるため、慎重に増強を重ねた。まず1部隊500人を9つ編成し、徐々に部隊の人員数を1000人にまで増員していった。そして9つの部隊のうち3つをローマ市に、そのうちの1つを皇宮に配備させた。そして紀元後2年にプラエトリアニの最高責任者となるプラエフェクトゥス・プラエトリオを2人置くことを決定した。
14年にアウグストゥスは没する。プラエトリアニは何事も起こさず、ティベリウス(在位:紀元14年 – 37年)への帝位の移行は円滑に行われた。しかしこれは最初で最後の事例で、これ以降プラエトリアニは皇帝への忠誠心よりも自分達の利害によって動くようになる。その徴候はカリグラ(在位:37年 – 41年)からクラウディウス(在位:41年 – 54年)の権力への移行期に現れる。41年にカリグラがプラエトリアニにより殺され、プラエトリアニ独自の判断により元老院に反対させることなくクラウディウスが擁立された。
そしてネロ(在位:54年 – 68年)の死後、ローマ内戦(68年-70年)になると、それまで戦場の矢面に立つことがなかったプラエトリアニは、オト(在位69年1月15日-4月15日)の側に立って戦うようになる。彼らの軍事的影響力を危惧したウェスパシアヌス(在位:69年 – 79年)は、自らが帝位に就くにあたってプラエトリアニの人員を削減し、さらに抑えとして息子のティトゥス(在位:79年 – 81年)をプラエフェクトゥス・プラエトリオに就かせたが、決定的な解決とはならなかった。
フラウィウス朝(69年 – 96年)、五賢帝(96年 – 180年)の時代を経て再び内乱の時代(192年-197年)になると、プラエトリアニは再び独自の勢力として頭をもたげ、皇帝そのものを支配するようになる。そしてペルティナクス(在位:193年1月1日 – 193年3月28日)を殺した後には、皇帝の位を公開競売にかけてディディウス・ユリアヌス(在位:193年3月28日 – 193年6月1日)を選ぶという前代未聞の行為まで行うようになった。これらの例に見られるように非常に強力な軍事権力であったにもかかわらず、皇族、元老院、官僚などとは違い、プラエトリアニ自身としては帝国を統治する能力はなく、常に誰かを擁立せねばならなかった。
そしてセプティミウス・セウェルス(在位:193年 – 211年)が皇帝の地位に就くと、彼はそれまであったプラエトリアニを解散、自らのパンノニア軍団を新たなプラエトリアニとして編成する。しかしその後、プラエトリアニの統率が取れるだけの政治力を持つ人物に恵まれず、さらに軍人皇帝時代になるとプラエトリアニは皇帝の擁立、排除を意のままにするようになる。無論、人選はその時の情勢によって変動し、短命政権が続いた。そしてプラエフェクトゥス・プラエトリオの地位からディオクレティアヌス(在位:284年 – 305年)が帝位に就くこととなった。
ディオクレティアヌスはプラエトリアニ出身であったが、その権限を大幅に削減した。しかしプラエトリアニはそのままの状態で、帝国は4分割されてゆく。そして最後の活躍は、312年にマクセンティウス帝(在位:306年 – 312年)を支持してコンスタンティヌス1世と戦ったミルウィウス橋の戦い(312年10月28日)である。プラエトリアニは戦闘の大半を担ったが敗北、勝者となったコンスタンティヌスはプラエトリアニを解散、各兵士は数名ごとにローマ軍に分散された。  (wikipedia・プラエトリアニより)]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*