サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂

マーカーはサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)
[サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂は、イタリアのローマにあるカトリック教会の大聖堂。ローマの四大バシリカ(古代ローマ様式の大聖堂)の一つに数えられる。四大バシリカとはこのラテラノ大聖堂とサン・ピエトロ大聖堂サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖パウロ大聖堂)である。さらにサン・ロレンツォ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(城壁外の聖ラウレンツィオ大聖堂)を加えて五大バジリカと呼ぶこともある。ラテラン教会、ラテラン大聖堂とも呼ばれる。ラテラノ宮殿が隣接している。ラテラノ大聖堂はバチカンの領域外にあるが、ラテラノ条約によってバチカンの特別な権利が認められている。
もともとこの場所にはローマ帝国の時代、ラテラヌス家という一族が豪華な邸宅を構えていた。ネロ帝時代(在位:54年 – 68年)、一族のプラティウス・ラテラヌスが執政官を勤めていた時、ネロ帝に対する反乱の容疑でとらえられ、邸宅と財産を没収された。教皇ミルティアデス(在位:311年 – 314年)の時代以降、ラテラノ家のものだった邸宅に教皇が暮らすようになり、ラテラノ宮殿(教皇宮殿)と呼ばれるようになった。敷地内のバシリカは聖堂に転用されたが、後に拡張されてローマ司教である教皇の司教座聖堂(カテドラル)となった。ラテラノ大聖堂の正式な献堂式は324年に教皇シルウェステル1世(在位:314年 – 335年)によって行われた。
ミルティアデス以降の歴代教皇たちはラテラノ宮殿で暮らしたが、14世紀のフランス人教皇クレメンス5世(在位:1305年 – 1314年)はフランス王の意を受けて聖座をフランス領内のアヴィニョンに移すことを決定した。(「アヴィニョン捕囚(1309年 – 1377年)」)
長らくアヴィニョンにあった教皇庁は紆余曲折をへてようやくローマに戻ったが、ラテラノ大聖堂と宮殿は荒れ果てていたため、教皇はとりあえずテヴェレ川沿いのサンタ・マリア大聖堂(後のサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂)に住むことにした。後に教皇の居住用にサン・ピエトロ大聖堂の隣に教皇宮殿がつくられ、そちらに移った。以後、教皇は現代に至るまでバチカンの教皇宮殿で暮らしている。
16世紀の教皇シクストゥス5世(在位:1585年 – 1590年)は荒れ果てていたラテラノ大聖堂と宮殿を修復してかつての威容を取り戻そうと考えた。再建後、もともと一体化していたラテラノ大聖堂とラテラノ宮殿は切り離された。
17世紀になると教皇インノケンティウス10世(在位:1644年 – 1655年)はフランチェスコ・ボッロミーニに聖堂内部の装飾を大々的に行わせた。18世紀のクレメンス12世(在位1730年-1740年)はファサードのデザインを公募し、アレッサンドロ・ガリレイの案を採用した。現在見られる聖人たちが立ち並ぶ印象的なファサードはこの案にしたがって1735年に完成している。しかし、このファサードの設置によって教会正面に残っていたバジリカ時代の面影がすべて取り払われてしまうことになった。
ラテラノ大聖堂前の広場にはエジプトから運ばれたオベリスクが屹立している。このオベリスクはもともとトトメス3世によってカルナックに建てられたものだったが、ローマ時代に大競技場チルコ・マッシモに建てるために運ばれ、その後、競技場がなくなると、現在地に移された。
大聖堂に隣接する八角系の洗礼堂は、コンスタンティヌス帝(在位:306年 – 337年)が洗礼を受けたという伝承の残る位置につくられ、永きにわたってローマでただ一つの洗礼堂として尊重された。
「サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂」・wikipedia-photowikipedia-photo、クーリアの青銅の門・wikipedia-photo、オベリスク・wikipedia-photo  (wikipedia・サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂より)]

平面図(「サン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂① | wasakoのブログ …」より)

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂 – Google Map 画像リンク

カメラ初期設定方向がサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂です。

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂正面ファサードのカメラです。

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂メインポルチコ(平面図⓵)のカメラで、カメラ北北西方向が大聖堂のメインポータル『中央の扉(Middle door)』(平面図⓶)です。
『中央の扉(Middle door)』はクリア・ユリアにあったサンタドリアーノ教会(chiesa di Sant’Adriano)から来ており、フランチェスコ・ボッロミーニによって大聖堂に改修設置されました。

平面図⓷『聖なる扉(Holy door)』
サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の聖なる扉は、2015年から2016年の『特別なジュビリー(Giubileo straordinario della misericordia)』のために開かれました。
特別な慈悲のジュビリー2015-2016に開かれた聖なる扉・wikipedia-photo

サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂身廊のカメラです。

平面図⑯教皇の祭壇(The Papal altar)前のカメラで、祭壇上に聖ペテロとパウロの頭蓋骨の聖遺物が祭られている聖籠、祭壇下はマルティヌス5世(在位:1417年 – 1431年)の墓で、洗礼者ヨハネ像があります。
アヴィニョン捕囚後、ローマとアヴィニョン共に教皇が並び立つシスマ(教会大分裂)が起こり、教会大分裂は1417年にコンスタンツ公会議でマルティヌス5世が選出されるまで続いた。教皇はユダヤ人への迫害にも反対し、財政再建のため教皇庁の税制改革・規律改革を推し進め、荒廃した旧サン・ピエトロ大聖堂やラテラノ宮殿などの修復を行った。

カメラ位置は翼廊のクロッシングで、カメラ西南西方向が内陣(長老席・Presbytery、平面図⑰)で、コスマテスク(Stile cosmatesco)の装飾が施された後陣(アプス・Apse、平面図⑱)に、教皇の椅子があります。

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