ティトゥスの凱旋門

マーカーはティトゥスの凱旋門です。

ティトゥスの凱旋門
[現存するローマ市最古の記念門。ユダヤ戦争の戦勝記念として81年に建立されたものである。高さ15.4m、幅13.5m。  (wikipedia・フォロ・ロマーノより)]

ティトゥス・アーチ
[ティトゥス・アーチは、70年のエルサレムの包囲に勝利したティトゥスを記念して、兄ティトゥスの死の直後にローマ皇帝ドミティアヌスによって82年に建設された。
「ティトゥス・アーチ」・wikipedia-photowikipedia-photo、アーチ中央下端の詳細・wikipedia-photo、「”戦利品”をかかげた勝利の行進を表示:南壁面のレリーフ」・wikipedia-photowikipedia-photo、碑文・wikipedia-photo、「修復前の1744年にアーチ。カナレットの絵画」・wikipedia-photo]

フォロ・ロマーノと周辺の広域平面図

01
02
03
04
05
皇帝たちのフォルム
パラティーノ
カンピドリオ
コロッセオ

01:マクセンティウスのバシリカ, 02:ウェヌスとローマ神殿, 03:ティトゥスの凱旋門, 04:ウェスタの巫女たちの家, 05:ロムルス神殿

ティトゥスの凱旋門 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向がティトゥスの凱旋門です。また、カメラ北北西方向がウェヌスとローマ神殿、カメラ南南東方向にコンスタンティヌスの凱旋門、カメラ東方向にコロッセウムがあります。

ティトゥスの凱旋門前のチケット売る場及び入場口です。

カメラ北西方向がティトゥスの凱旋門です。

カメラ南東方向がティトゥスの凱旋門です。

ティトゥスの凱旋門下からのカメラです。

ティトゥス
[ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌス(Titus Flavius Vespasianus 、39年12月30日 – 81年9月13日)は、ローマ帝国皇帝(在位:79年 – 81年)である。一般的にはティトゥスとして知られる。フラウィウス朝第2代の皇帝である。先帝ウェスパシアヌスの長男、母はフラウィア・ドミティラ、弟はドミティアヌス帝。
39年、ローマにて誕生した。ティトゥスは皇宮で帝国の後継者たちとともに学んでいたらしく、帝位継承者の一人ブリタンニクスと仲がよかった。そのブリタンニクスが毒殺された時、ティトゥスはすぐ隣にいて盛られた毒を少し試し、長い間床に伏せていたという。この事をティトゥスは生涯忘れず、後に皇帝になった時に若くして死んだ旧友の像を建立したと伝えられている。
61年から63年にかけてトリブヌス・ミリトゥムに就任、父ウェスパシアヌスとともにブリタンニアへ赴く。64年にローマに戻りアレキナ・テルトゥラと結婚、しかしすぐ死別、翌65年にマルキア・フルニッラと再婚する。妻の生家は帝位後継者、後のローマ皇帝ネロの対抗勢力に属していた。そして結婚と同年の65年に元老院議員ピソによるネロの暗殺疑惑事件 (en:Pisonian conspiracy) が発生、この件で妻とは離縁する。以来彼は結婚しなかった。
67年に父ウェスパシアヌスとユダヤ人の反乱鎮圧のためパレスチナに向かう。クァエストル(財務官)となっていたティトゥスは、同地で軍の一指揮官として勤務する。しかし68年にネロが自死、ガルバがローマ皇帝として就任する。この時ティトゥスは、父ウェスパシアヌスの命令で、ガルバに皇帝就任の祝辞を述べるためローマに赴いたが、ガルバ殺害、オト自死、ウィテリウスが皇帝即位と西方の情勢が混乱しているのを知ると、旅程の途中で自らの判断により父の下へ引き返している。そして以降ユダヤ戦争の鎮圧に専念する。このように1年に皇帝が4人も代わるという政権が不安定な「四皇帝の年」に、ティトゥスはシリア総督ムキアヌスと共同して父ウェスパシアヌスを支えた。
69年には最初にムキアヌスがウィテリウスに対する先鋒として、そして次に父ウェスパシアヌスがローマへ皇帝宣言のため赴くと、エルサレム攻略の司令官となり、70年にはエルサレムを占領し、73年まで抵抗を続けたマサダの要塞を除きユダヤ人の反乱を平定する(ユダヤ戦争)。この時にユダヤ王家の一族に連なるベレニケと恋に落ちた。そしてローマに帰還して凱旋式を挙げる。この凱旋式の様子はフォルム・ロマヌム(フォロ・ロマーノ)の東端にティトゥスの凱旋門のレリーフに残っている。その後、父ウェスパシアヌスと共同統治し、親衛隊長官及び執政官職を数回務めた。
ティトゥス・wikipedia-photo、ティトゥスの凱旋門のレリーフ・wikipedia-photo  (wikipedia・ティトゥスより)]