バチカン市国(バチカン宮殿)

マーカーはバチカン宮殿です。

バチカン市国
[バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年にコンスタンティヌス1世によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。1860年にイタリア王国が成立すると教皇領は接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶し、教皇は「バチカンの囚人」と称してバチカンに引きこもった。このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやくピウス11世_(ローマ教皇)の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が信教の自由を考慮して修正された。
教皇の衛兵としてスイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日にユリウス2世_(ローマ教皇)により創設され、1527年、ローマがカール5世_(神聖ローマ皇帝)神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、身を犠牲にしてクレメンス7世_(ローマ教皇)の避難を助けた。現在はスイス国内でカトリック教会からの推薦を受けたカトリック信徒の男子が選ばれている。
『イタリア・ローマ市の「和解の道」からバチカン中心部を望む。』・ファイル:St_peters_vat_distance.jpg、スイス人衛兵・ファイル:Swiss_Guard.jpg  (wikipedia・バチカン市国より)]

バチカン宮殿
[バチカン宮殿(ばちかん きゅうでん、Palazzi Apostolici, Palazzi Vaticaniとも)は、バチカン市国内のサン・ピエトロ大聖堂に隣接するローマ教皇の住居である。
当初、バチカンには、サン・ピエトロ大聖堂に隣接して修道院巡礼者の宿泊施設、教皇の休憩用の邸宅程度しかなかった。アヴィニョン捕囚以前の教皇の住居はラテラノ宮殿に置かれていた(サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂の項目を参照)。
カール大帝オットー2世がバチカン宮殿に滞在していることから、その当時には一定の規模になっていたと考えられる。また、教皇インノケンティウス3世(1198年 – 1216年)やボニファティウス8世(1235年 – 1303年)などが増築を行っている。
アヴィニョン捕囚の後、バチカン宮殿は教皇の住居になった(当時の教皇ニコラウス5世(1455年 – 1458年)による建物が現存しているという)。1583年にクイリナーレ宮殿が竣工すると、バチカン宮殿は教皇の住居の座をクイリナーレ宮殿に譲るが、それ以降も度々増築され、図書館、システィーナ礼拝堂、博物館施設などが建てられた。博物館を一般に公開するようになるのは18世紀中期以降で、展示内容・施設は徐々に充実されていった。
イタリア統一運動(リソルジメント)を背景とした1870年の教皇領消滅によって、翌1871年より、教皇は再びバチカン宮殿に住居を移した。
バチカン博物館(Musei Vaticani、バチカン美術館とも)として、ラファエロが天井画・壁画を描いた「署名の間」(ラファエロの間)や、ルネサンスバロック期の作品を集めた絵画館、古代ギリシャ・ローマの美術コレクションを集めたピオ・クレメンテ美術館などが公開されている。
現在、教皇の住居になっているのは、16世紀のシクストゥス5世による建物、また、教皇が謁見を行う広間は20世紀に建てられたものである。これらはもちろん非公開である。「謁見の間」にはペリクレ・ファッツィーニが製作した彫刻「キリストの復活」があり、その製作にはファッツィーニの助手の杭谷一東も参加した。
サン・ピエトロ広場から眺めたバチカン宮殿・wikipedia-photo (wikipedia・バチカン宮殿より)]

カメラ初期設定方向回廊の上がバチカン宮殿です。