バチカン市国(サン・ピエトロ広場)

マーカーはサン・ピエトロ広場オベリスクです。

バチカン市国
[バチカンの地は古代以来ローマの郊外にあって人の住む地域ではなかったが、キリスト教以前から一種の聖なる地だったと考えられている。326年にコンスタンティヌス1世(在位:306年 – 337年)によって使徒ペトロの墓所とされたこの地に最初の教会堂が建てられた。やがてこの地に住んだローマ司教が教皇として全カトリック教会に対して強い影響力をおよぼすようになると、バチカンはカトリック教会の本拠地として発展し、755年から19世紀まで存在した教皇領の拡大にともなって栄えるようになった。1860年にイタリア王国が成立すると教皇領は接収されたため、ローマ教皇庁とイタリア王国政府が関係を断絶し、教皇は「バチカンの囚人」と称してバチカンに引きこもった。このような不健全な関係を修復すべくイタリア政府とバチカンの間で折衝が続けられたが、1929年2月11日になってようやくピウス11世(在位:1922年 – 1939年)の全権代理ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ首相との間で合意が成立し、3つのラテラノ条約が締結された。条約は教皇庁が教皇領の権利を放棄するかわりに、バチカンを独立国家とし、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位を保証するものであった。この措置はイタリア国民にも広く支持され、「教皇との和解」を実現したムッソリーニの独裁体制はより強固なものとなった。1984年になると再び政教条約が締結され、イタリアにおけるカトリック教会の特別な地位などのいくつかの点が信教の自由を考慮して修正された。
教皇の衛兵としてスイス人衛兵が常駐している(2007年現在110人)。1505年1月22日にユリウス2世(在位:1503年 – 1513年)により創設され、1527年、ローマがカール5世(在位:1519年 – 1556年)の神聖ローマ皇帝軍に侵攻された際(ローマ略奪)、身を犠牲にしてクレメンス7世(在位:1523年 – 1534年)の避難を助けた。現在はスイス国内でカトリック教会からの推薦を受けたカトリック信徒の男子が選ばれている。
『イタリア・ローマ市の「和解の道」からバチカン中心部を望む。』・wikipedia-photo、スイス人衛兵・wikipedia-photo  (wikipedia・バチカン市国より)]

サン・ピエトロ広場
[サン・ピエトロ広場(イタリア語:Piazza San Pietro)はバチカン市国南東端にあるカトリック教会の総本山、サン・ピエトロ大聖堂の正面にある楕円形の広場。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの設計により、1656-67年に建設された。4列のドーリア式円柱による列柱廊と140体の聖人像に囲まれた広場の中央にオベリスクが立つ。
「サン・ピエトロ広場鳥瞰」・wikipedia-photo、「サン・ピエトロ広場」・wikipedia-photo、ドーリア式円柱・wikipedia-photo、オベリスク・wikipedia-photo  (wikipedia・サン・ピエトロ広場より)]

バチカン・オベリスク – 岡本正二のホームページ

カメラ西方向がサン・ピエトロ広場です。

サン・ピエトロ広場オベリスク前のカメラです

カメラ初期設定方向がサン・ピエトロ広場です。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*