ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿

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ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿
[ユピテル・オプティムス・マクシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(羅語:Aedes Iovis Jupiter Optimus Maximus ,Juno ,Minerva)は、カピトリヌス丘陵(現カピトリーノ)にあった古代ローマの神殿。現在は基礎部分が一部のみ残っている。
至高神ユピテルユーノー、そしてミネルウァを奉り、共和制ローマ、およびローマ帝国において、国家第一の格式を誇る神殿として尊重された。ローマでは、この神殿の奉献年を以て、執政官名によって年を表す年代表が導入されたと信じられた。
発掘された陶片などから、この神殿が建設されるよりも前から、カピトリヌスには小規模な神殿が存在していたことが分かっている。ティトゥス・リウィウスによれば、カピトリヌスの丘に神殿を建設する計画は、ルキウス・タルクィニウス・プリスクス(在位:紀元前616年 – 紀元前579年)の時代に構想され、サビニ人との戦争の後に基礎工事が行われた。しかし、本格的な工事は、ルキウス・タルクィニウス・スペルブス(在位:紀元前535年 – 紀元前509年)によって行われ、ユピテル神の座所とするために、当時すでに存在していた小祠は、鳥占いによってテルミヌス神のもの以外は撤去された。神殿の建築は、市民もその労役に服したため、彼の治世に神殿はそのほとんどが完成することになったが、スペルブスの追放後、神殿は執政官マルクス・ホラティウス・プルウィッルスによって奉献された。ローマでは、その日付は紀元前509年(あるいは紀元前507年)9月13日と信じられている。
共和制末期の紀元前83年7月6日、神殿は民衆派(ポプラレス)と閥族派(オプティマテス)の抗争の最中に全焼した。争乱の後に独裁官としてローマの実権を握った閥族派ルキウス・コルネリウス・スッラは、直ちに神殿の再建を指示し、その際、工事が停止していたアテナイのオリンピエイオンから輸送された石材を、神殿の柱として使用したことが知られている。しかし、この神殿もウェスパシアヌスの武装蜂起に際し(69年)、ウィテリウス帝(在位:69年1月2日 – 12月20日)によって、ウェスパシアヌスの兄であるフラウィウス・サビヌスとともに焼き払われた。ウェスパシアヌスは皇位(在位:69年1月2日 – 12月20日)に就くと神殿の再建を指示したが、これも80年の市街火災によって再び炎上した。その後、ドミティアヌス帝(在位:81年 – 96年)によって神殿は再度構築され、その後400年間以上、完全な状態で保持され続けたと考えられる。しかし、5世紀以降の神殿の記録はなく、古代ゲルマン人の一支族ヴァンダル族の王ガイセリック(389年頃 – 477年)の侵略時、あるいはゴート戦争(535年 – 554年)時に神殿は焼失し、そのまま放棄されたようである。
1919年に発見された下部構造から、神殿の基壇(ポディウム)の大きさは62m×53mであることが分かっている。その構成はエトルリア建築に由来するが、同時代のものとしては、エトルリア全域を含めた中部イタリアにおいて、知られている限り最も大きい。
「ローマのカピトリヌスにあったユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿(復元模型)」・wikipedia-photoカピトリーノ美術館内にある基礎構造・wikipedia-photo  (wikipedia・ユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿より)]

[かつてローマの凱旋式は、フォロ・ロマーノのウィア・サクラ(聖なる道)を通って、公文書館(タブラリウム)の脇を抜け、カピトリーノにあったユピテル・オプティムス・マキシムス神殿に奉献するのが習わしであった。  (wikipedia・フォロ・ロマーノより)]

カピトリーノ美術館内にある基礎構造前のカメラです。

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