ローマ国立近代美術館

マーカーはローマ国立近代美術館です。

[Google アートプロジェクト] – 「ローマ国立近代美術館

ローマ国立近代美術館(英語:Galleria Nazionale d’Arte Moderna、イタリア語:Galleria nazionale d’arte moderna e contemporanea)
[ローマ国立近代美術館は19世紀と20世紀のイタリア人芸術家の絵画作品を所蔵している。 (wikipedia・ボルゲーゼ公園より)]

[ボルゲーゼ公園の北側に、ボルゲーゼ美術館ヴィラジュリア美術館と並んであります。クリムトや現代の代表的な作家の作品があります。長い歴史から超一級の美術品があちこちにあるローマでは目立たないけれど、ほかの美術館や教会の荘厳で重みのある絵画や彫刻を眺めたあとに訪ねると、なんだかほっとして、とても気持ちが和らぐ美術舘だと思います。  (「国立近代美術館, ローマ – 旅行のクチコミサイト フォートラベル」より)]

ローマ国立近代美術館 – Google Map 画像リンク

カメラ北北東方向がローマ国立近代美術館です。

ローマ国立近代美術館エントランスホールのストリートビューです。

ローマ国立近代美術館展示中央ホールのストリートビューです。左・無名の画家 アカデミックヌード(Nudo Accademico)[1810年]、右・ヴィットーリオ・マッテーオ・コルコス作 夢(Sogni)[1896年]-「ヴィットーリオ・マッテーオ・コルコス『夢』 – 読書画像

中央ホール・カメラ方向中央下 – ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti)作 ヤナ・ロセッティの肖像(Ritratto di Jana Rossetti) [1868-1874年]

中央ホール・カメラ初期設定中央下 – アメデオ・モディリアーニ作 ハンカ・ズボロフスカの肖像(Ritratto di Hanka Zborowska)[1917年]

[国立近代美術館、建物正面には赤い特大の “T” がぶら下がっている。開催中の特別展示は “Gli ambienti del Gruppo T” (Gruppo Tの部屋)。Gruppo Tは ’60年代にミラノで活動していた前衛集団。”T” は “tempo” 時間を表すが、作品は主に、音・光と闇・鏡などを使って感覚の揺らぎを体感させる空間を再現したキネティックアートだけど、造りや効果がどれもシンプル。
常設展示は、イタリアの作家の作品を中心に、19〜20世紀のヨーロッパ絵画・彫刻が並ぶ。19世紀では神話・キリスト教画・肖像画・風景画が多数そろうなか、巨大なリソルジメント絵画2枚が目を惹く。イタリア統一戦争中のオーストリア軍との二つの戦闘を写実的に描き、この勇敢な戦闘を称えている。
2枚のうち、ピエモンテ軍が勝利した「サン・マルティーノの戦い」(commons.wikimedia)を描いた絵よりも敗退した「クストーザの戦い」(commons.wikimedia)のほうが胸を打つ。単に倒れた兵士や死んだ馬が描き込まれているからだとも言えるけど、勝っても負けても戦争にはそんな犠牲が伴うのだ、と2枚を見比べながら思う。  (「音沙汰なき日々の過ぎ方 : ローマ 国立近代美術館」より)]

フランチェスコ・パオロ・ミケッティ(Francesco Paolo Michetti)作 Il voto[1883年]

ポール・セザンヌ作 Le cabanon de Jourdan[1906年]

左・アメデオ・モディリアーニ作 ハンカズボロフスカ(Ritratto di Hanka Zborowska) [1917年]、中央・グスタフ・クリムト(Gustav Klimt)作 女性の三時代(The Three Ages of Woman)[1905年]、右・ オーギュスト・ロダン作 青銅時代[1875年]

クロード・モネ作 『バラ色の睡蓮』(1897年-1899年)

カテゴリ:ナショナルギャラリーオブモダンアートのヴィンセントヴァンゴッホの絵画

フィンセント・ファン・ゴッホ作 左『アルルの女(M.me Ginouxの肖像)』[1890年2月]、右『庭師(Il giardiniere)』[1889年9月]

[1889年5月8日、ファン・ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミのサン=ポール=ド=モーゾール修道院(Monastère Saint-Paul-de-Mausole)療養所に入所した。ファン・ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ファン・ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、『麦刈る男』、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの『ピエタ』の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた。
1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった。1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた。1月31日に弟テオヨーの間に息子(フィンセント・ヴィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に『花咲くアーモンドの木の枝』を描いて贈ったり、ポール・ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった。4月、ペロン院長はテオに、ファン・ゴッホが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている。
一方、ファン・ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが『メルキュール・ド・フランス』誌1月号にファン・ゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの『ひまわり』、『果樹園』など6点が出品されて好評を博した。2月、この展覧会でファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に『渓谷』など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやクロード・モネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#サン=レミ(1889年5月-1890年5月)より)]

ジュゼッペ・デ・ニッティス作 『ブローニュの森のレース。 グランドスタンドで; ストーブの隣; 椅子の上に(Le corse al Bois de Boulogne. Nella tribuna; accanto alla stufa; sulla seggiola)』[1881年]

アンジョロ・トンマージ(Angiolo Tommasi)作『移民』(1896年1月)(wikipedia-photo)

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