マーカーはローマ市庁舎です。
[現在のローマ市庁舎は、古代ローマのフォロ・ロマーノの西端にあった公文書館(タブラリウム)の建物の上に、ルネッサンス時代のミケランジェロによって建てられたセナトリオ宮殿(Palazzo Senatorio)です。
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられたとされています。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺し、その後、ロムルスは7代続く王政ローマ(紀元前753年 – 紀元前509年)の初代の王となり、またローマの市名の元となったとされています。その、「狼の乳を吸うロームルスとレムスの像(wikipedia-photo)」が市庁舎北西角に設置されています。
古代ローマの公文書館・タブラリウムはローマ市庁舎の裏側になり、タブラリウムにはカピトリーノ美術館から歩廊橋を通ってタブラリウムに入ることができます。]
「セナトリオ宮 – Google Map 画像リンク」「Torre di Martino V – Google Map 画像リンク」「カピトリーナのオオカミ – Google Map 画像リンク」
カメラ東南東方向がローマ市庁舎です。
カメラ南方向がローマ市庁舎で、カメラ方向の円柱頭部に「狼の乳を吸うロームルスとレムスの像」のレプリカがあります。
ローマの歴史
[ローマはイタリア全土にあるコムーネのうちの一つで、都市規模・人口ともに最大である。市長および市議会がコムーネを管理しており、ローマにおける歴史的な政庁所在地であるカンピドリオに市庁舎は設置されている。また市庁舎の置かれる地名から、ローマ市政は「カンピドリオ」と通例呼ばれる。
行政区分では19のムニチーピオという地域に区分される。この区分は中心部への集中を分散化することを目的として創設され、各ムニチーピオは区長、および5年おきに選挙で選出される4人の議員が運営する。この行政区分は、伝統的な非行政区域の境界線を越えることがある。この歴史的な区分、リオーネは22の区域に分割され、一部を除いてアウレリアヌス城壁内の地域をさす。
ローマ市の盾形の紋章に書いてある「SPQR」の文字は、ラテン語で「元老院とローマの市民」の略称で、ローマ帝国時代には、領域内のあらゆる地で公共物に刻んだ。
今でも、ローマ市内に残るローマ帝国時代の遺跡や当時の建造物の他、現在のローマ市の盾形の紋章に使用されていることから、ローマ市内を走るバスやタクシー、マンホールの蓋にも紋章が入れられている。
伝説によれば、ローマは紀元前753年4月21日にギリシャ神話の英雄アイネイアスの子孫である、双子のロムルスとレムスにより建てられた。ロムルスはレムスとローマを築く場所について争い、レムスを殺した。その後、ロムルスは7代続く王政ローマの初代の王となり、またローマの市名の元となったとされる。(狼の乳を吸うロームルスとレムスの像・wikipedia-photo)
考古学的には、この地に人々が居住したのはもっと早く、ローマの起源は紀元前8世紀もしくは9世紀ごろ、北方からイタリア半島に移動してきた民族がテヴェレ川河畔に定住したことにさかのぼると考えられている。恒常的に人が住むようになったのはこの頃らしく、紀元前8世紀にはじまる鉄器時代の遺跡はパラティーノの丘で発見された。
他にもエスクイリーノの丘やクイリナーレの丘にも集落があったものと思われる。当時のローマは低地は湿地帯で居住に向かず、丘の上に竪穴式木造家屋を建てて住む数千人の人々が小麦を栽培して生活していた。
紀元前7世紀頃には都市国家としての整備が進んだ。パラティーノの丘とカンピドリオの丘の間に排水路が設けられ、湿地を乾燥させた場所には公共の施設フォロ・ロマーノが作られた。ここはローマの政治・経済の中心へと発展した。
王政ローマ期(紀元前753年 – 紀元前509年)に当たる紀元前6世紀の王セルウィウス・トゥッリウス(在位:紀元前578年 – 紀元前535年)の頃には、防衛の石垣セルウィウス城壁がローマを覆うように建設されたと伝わる。ただし考古学的調査ではこの城壁は紀元前4世紀前半頃であり、史実的にガリア人がイタリア半島に進出した時期と重なるため、これらへの備えで作られたという説が有力である。
共和政ローマ期(紀元前509年 – 紀元前27年)にはイタリア南部をほぼ領土とし、その首都としてますますローマは発展した。人口増加に対応して丘の下にまで広がった家屋はレンガ製の壁を持つものとなり、道路の整備も進んだ。現代も残る大戦車競技場(チルコ・マッシモ)が建設されたのもこの頃と言われる。紀元前312年からはローマ街道の敷設が、また同じ頃から水需要の増加に対応するローマ水道の建設が始まった。
ローマ帝国(紀元前27年 – 紀元1453年)の首都となり、皇帝アウグストゥス(在位:紀元前27年 – 紀元14年)の時代には100万人が居住する世界最大の都市となった。それに伴いフォロ・ロマーノが整備され、ローマは権力の中心としての都市開発が進展した。しかし皇帝ネロ(在位:紀元54年 – 紀元68年)統治時の64年に市域の1/3を焼失するローマ大火が発生した。これを機にネロは乱雑な建物に規制を施し、区画整備を推進した。こうしてローマは整然とした町並みを手に入れた。 (wikipedia・ローマより)]