サンタ・マリア・デル・カルミネ教会(ブランカッチ礼拝堂)

マーカーはサンタ・マリア・デル・カルミネ教会です。

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会
[サンタ・マリア・デル・カルミネ教会は隣接するカルメル会の修道院とともに、1268年に創設される。施設は時代とともに拡大され、1回目は1328年フィレンツェ市が修道士達に城壁近くの土地の使用を許可したときである。1464年には会議場と食堂が増設される。17世紀まで拡張工事は続いた。しかし、1771年、火災が発生、教会はほぼ全焼する。幸いなことにブランカッチ礼拝堂は炎を免れるが、その他の建物は再建を余儀なくされた。再建作業はジュゼッペ・ルッジエリの構想を基に進められ、1782年ジュリオ・マンナイオーニの手によって終了するが、教会内部のみに限られファサードは未完に終わる。 17世紀に建築された2番目の修堂院の食堂は、現在美術展やコンサートなどにしばしば利用されている。  (「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」より)]

[未完成のファサード・wikipdia-photo、教会内部・wikipdia-photo、コルシーニ礼拝堂・wikipdia-photo、ドミニク・Stagi作の天井画・wikipdia-photo]

ブランカッチ礼拝堂
[ブランカッチ礼拝堂
ブランカッチ礼拝堂は、サンタ・マリア・デル・カルミネ大聖堂の教会堂(バシリカ)として1366年あるいは1377年にフィレンツェの商人ピエロ・ディ・ブランカッチによって建てられ、後にピエロの甥のフェリーチェ・ブランカッチの所有となっている。フェリーチェは1423年から1425年にかけて、マソリーノに聖ペトロを描いた一連のフレスコ壁画の制作を幾度か依頼した。ペトロがピエロの洗礼名で、さらにブランカッチ家の守護聖人でもあったためだが、教会大分裂期のローマ教皇を支持するという意味もこめられていた。
ブランカッチ礼拝堂の壁に描かれた『貢ぎの銭』
ブランカッチ礼拝堂の壁画作成を請け負ったマソリーノは、18歳年少のマサッチオを共同制作者として選んだが、マソリーノは1425年にハンガリー、1427年にローマを訪問してフィレンツェを去り、ブランカッチ礼拝堂壁画の完成はマサッチオに任せられることになる。しかしマサッチオも壁画が完成する前の1427年あるいは1428年にローマのマソリーノの元へと行っており、その後ブランカッチ礼拝堂のフレスコ壁画を完成させたのはフィリッピーノ・リッピで、1480年代になってからだった。最終的な壁画全体の完成はリッピの仕事とはいえ、『貢の銭』自体は間違いなくマサッチオの作品であると認められている。
ブランカッチ礼拝堂の一連のフレスコ画は、何世紀にも渡って手を加えられたり、大きな損傷を受けたりしている。1746年には後期バロックの画家ヴィンチェンツォ・メウッチによって、マソリーノが描いたフレスコ画のほとんどが上から描きかえられた。さらに1771年には教会が火災にあって焼失してしまっている。ブランカッチ礼拝堂の建物自体は火事による被害はなかったが、フレスコ後には深刻な損傷が残った。1981年から1990年にかけて、ようやく礼拝堂の大規模な修復が実施され、フレスコ壁画もオリジナルの状態に復元修復された。しかしながら完全に制作当時の状態にまで修復されたとは言えず、特に乾式フレスコ技法であるフレスコ・セッコで描かれた部分は元通りにはならなかった。『貢の銭』に描かれていた木々の葉は消失し、キリストがまとっている青色のローブはその輝きを失ってしまっている。
ブランカッチ礼拝堂の壁に描かれた『貢ぎの銭』・wikipedia-photo、『貢の銭』・wikipedia-photo  (wikipedia・貢の銭より)]

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会 – Google Map 画像リンク」、「ブランカッチ礼拝堂 – Google Map 画像リンク」、「Sala Vanni – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向がサンタ・マリア・デル・カルミネ教会で、教会翼廊に接続してブランカッチ礼拝堂があります。

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会翼廊のカメラで、カメラ西方向がブランカッチ礼拝堂です。

ブランカッチ礼拝堂のカメラです。

図書室のカメラです。

サンタ・マリア・デル・カルミネ教会中庭回廊のカメラです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*