ムニチビオ広場、サン・ジャコモ宮(市庁舎)

マーカーはサン・ジャコモ宮です。

ムニチビオ広場(改修工事中)

サン・ジャコモ宮(市庁舎)
[1819年から1825年の間に建設されました。ステファノとルイジ・ガッセの設計のもと、近くにあった聖・ジャコモ教会からその名がつきました。建物一部はブルボン朝下の大臣でもあったルイジ・ガッセの住居として使用されました。溶岩石でできた、入り口の扉口側には1799年のパルテノペア共和国の殉教者達の名前が刻まれた碑が並んでいます。中庭中央には石造りの二重階段がそびえ、「マリアンナ・ナポリの頭部」と呼ばれる女性の彫像頭部を見ることができます。また広間は豪華な家具やフレスコ画で飾られています。  (「サン・ジャコモ館 – INAPLES – ナポリ観光労働組合」より)]

サン・ジャコモ宮 – Google Map 画像リンク」、「ネットゥーノ(ネプチューン)の噴水 – Google Map 画像リンク

カメラ位置はムニチビオ広場・西端で、カメラ西北西方向が、サン・ジャコモ宮です。

[ナポリ市は、紀元前6世紀に古代ギリシア人(特にアテネ人)の植民活動によって建市されたと考えられている。「ナポリ」の語源はギリシア語の「ネアポリス」(新しいポリス)であり、最初に建設された植民都市パルテノペから数キロはなれた場所に新しく建設された町という意味である。その後、ナポリは長くローマ帝国の支配下にあったが、476年の西ローマ帝国(395年 – 476年/480年)滅亡後、南イタリアは東ゴート族ランゴバルド族の支配が及ぶなど流動的な状況となった。6世紀になると、東ローマ帝国(ビザンツ帝国・395年 – 1453年)のユスティニアヌス1世(在位:527年 – 565年)がイタリアの再征服に乗り出し、イタリア半島はラヴェンナを首府とする東ローマ帝国の属州となった。ナポリ市には660年に東ローマ系の公国が設置されている。
11世紀にはノルマン人が南イタリアに到来し、イスラム教徒が支配するシチリア島を征服してシチリア王国オートヴィル朝・1130年 – 1194年)を建国するが、ノルマン人の支配は南イタリアでも拡大され、ナポリ公国も1140年ノルマン人の手に落ちた。12世紀にはシチリア王国は婚姻関係によってホーエンシュタウフェン家(1138年 – 1208年、1215年 – 1254年、シチリアでは1266年まで続いた。)の神聖ローマ皇帝の支配に移った。1224年には異色の皇帝フェデリーコ2世(神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世・在位:1220年 – 1250年)がナポリ大学を設立した。
フランスの王族シャルル・ダンジュー(シチリア王・在位:1266年 – 1282年、後にナポリ王・在位:1282年 – 1285年)によりホーエンシュタウフェン家のシチリア支配が断絶すると、ローマ教皇クレメンス4世(在位:1265年 – 1268年)は1266年、シチリア王国をシャルル・ダンジューにあてがい、アンジュー家は王国の首都をパレルモからナポリに遷都した。しかし1284年、シチリアの晩鐘事件を契機にシチリア島で反乱が起こると、アラゴン王ペドロ3世(在位:1276年 – 1285年)がシチリアを占領するが、ナポリを中心とする南イタリアはアンジュー家が依然として押さえていたので、王国は2つに分割された。2つの王国は共に「シチリア王国」を公称していたが、この時にナポリ王国(1282年 – 1816年)が成立したと見ることができる。
トラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世(在位:1416年 – 1458年)はシチリア王を兼ねていたが、内紛続きのナポリ王国を征服して、1443年にナポリ入りし、2つの「シチリア王国」の王を兼ねた。アルフォンソはアラゴン王であるにもかかわらず、ナポリに長く滞在して統治した。1458年のアルフォンソの死後は私生児のドン・フェランテがフェルディナンド1世(在位:1458年 – 1494年)としてナポリ王位のみを継承するが、失地回復をめざすフランス・ヴァロワ朝(1328年 – 1589年)のシャルル8世(在位:1483年 – 1498年)がこれにつけ込んで、1494年にナポリを武力占領した。これに対してスペイン(カスティーリャ=アラゴン連合王国)から派遣されたコルドバ将軍は、1503年にナポリを征服し、フランス軍を南イタリアから追放した。ナポリ王家は取り潰され、スペインのナポリ総督によって支配される属州となった。
スペイン継承戦争(1701年 – 1714年)のさなか、1707年にオーストリア・ハプスブルク家の軍隊がナポリに入城し、スペインの総督は追い払われた。オーストリアの支配は1734年まで続く。ポーランド継承戦争が起こると、フランス・ブルボン家スペイン・ブルボン家の支援を求め、1734年にスペイン王子でもあるパルマ公ドン・カルロスがナポリに入城してナポリ王カルロ7世(在位:1735年 – 1759年)として即位、シチリアも回復した。カルロスは1759年にスペイン王カルロス3世(在位:1759年 – 1788年)として即位した際、ナポリ王位を息子のフェルディナンド4世(在位:1759年 – 1806年、1815年)に譲った。この1734年をもって両シチリア王国(1816年 – 1861年)の成立とする見方もある。ただこの時は正式名称としては使用されなかった。
ナポレオン戦争(1803年 – 1815年)の間、ナポリ王フェルディナンドはナポリから追放され、シチリアを領有するのみとなった。ナポリは1806年から1815年にかけてナポレオン・ボナパルトの兄ジョゼフ(在位:1806年 – 1808年)、次いで妹婿のミュラ(在位:1808年 – 1815年)を王に戴くことになる。1816年にフェルディナンドがナポリとシチリアの王として返り咲くと、間もなく国名を正式に両シチリア王国とした。1860年、両シチリア王国はジュゼッペ・ガリバルディに征服され、翌1861年に成立するイタリア王国(1861年に成立し、1946年に共和制へ移行)に併合された。
1995年、世界遺産(文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録された。  (wikipedia・ナポリより)]

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*