シエナ大聖堂

マーカーはシエナ大聖堂です。

シエナ大聖堂(日本語:シエナ大聖堂、イタリア語:Duomo di Siena 、英語:Siena Cathedral )
[シエナ大聖堂は、イタリアシエーナにあるキリスト教カトリックの教会堂。シエーナの司教座聖堂である。大聖堂、司教館、サン・ジョヴァンニ洗礼堂、ピッコロミーニ図書館、そして未完成となった拡張部分から構成される。世界遺産シエーナ歴史地区の中心を飾り、イタリアで最も美しいゴシック様式ファサードをもつと言われる。wikipedia-photo

シエナ大聖堂の起原は伝説の域を出ず、明確ではない。伝承では、聖アンサヌスの獄された塔があった場所、あるいはミネルヴァ神殿があったとされる。9世紀頃には、現在の司教館の位置に聖母マリアの教会堂があったことが知られるが、詳細は一切知られていない。
現在の大聖堂は1220年代に起工されたが、正確な日付や設計者などについては全く分かっていない。大聖堂の工事に関する支出記録は1226年以降にみられるが、詳細な工程についてはよくわからない。ただ、1264年には建物の大まかな工事が終了したらしく、ロッソ・パデッライオなる人物にドーム上部の銅球細作の報酬が支払われている。これ以後は、大聖堂の内部装飾に関する支払い記録が多い。
ファサードは、1284年頃にジョヴァンニ・ピサーノによって起工された。彼は3つの入り口を設計し、予言者や使徒の彫刻を作成してファサードを装飾した。これらジョヴァンニ・ピサーノと彼の弟子たちの作品は、イタリア・ゴシック彫刻の最高傑作と讃えられる。1270年から1285年までにファサードの上段部分の工事が行われ、1288年にはドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ作の円形窓が聖歌隊(クワイヤ)に設置された。当時、ジョヴァンニ・ピサーノは工匠頭に指名されており、すでにファサード下段部分の工事を完成させていたが、1297年に突然解任され、シエーナを去った。 1311年6月9日、大聖堂の大祭壇画である「マエスタ」がドゥッチョのアトリエから運搬され、大聖堂はおおよその完成をみる。
ところが大聖堂の建設は中止されず、1316年には、当時の工匠頭カマイーノ・ディ・クレシェンティーノ( Camaino di Crescentino )により、大聖堂の聖歌隊席と翼廊、そしてその下部の洗礼堂が建て増しされることになった。カマイーノの計画は、1322年に、工事を危惧したシエーナ市民の設置した専門委員会に批判されたが、おかまいなしに工事は続行し、1325年に洗礼堂部分が完成した。
1339年8月23日、シエーナ市議会である「鐘の評議会」に、フィレンツェサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に対抗すべく、ロレンツォ・マイターニ( Lorenzo Maitani )の提唱した西ヨーロッパ最大となる聖堂の建設が上奏される。大聖堂の垂直方向に新たな主軸を設定するもので、今日の大聖堂の長軸を、新しい計画では短軸とする計画であった。計画地は当時シエーナで最も家屋が密集した場所であったため、用地買収が行われ、1340年2月2日に基石がおかれた。このとき、すでにロレンツォ・マイターニは他界し、工匠頭にはランド・ディ・ピエトロ( Lando di Pietro )が指名された。彼には羊皮紙が支給されているので、現存する羊皮紙に書かれた新たな聖堂の設計図は彼の手によるものとされる。彼は、工匠頭に指名されてすぐに死去してしまったが、工事はすすめられた。
ところが、1342年、シエーナで疫病が発生し、次いで飢餓が襲うと、状況は一変する。すでにシエーナの財政規模は縮小しつつあったが、1348年の黒死病の流行がさらに追い打ちをかけた。市の経済は打撃を受け、もはや大聖堂の建設にまわせるような資金は得られず、工事は完全に停止した。1356年、評議会は専門委員会を設置してこの計画の実現可能性を計ったが、結果はさんざんなものであった。さらに、当時工匠頭であったドメニコ・ダゴスティアーノ( Domenico di Agostino )らも、工事の継続には莫大な費用と時間が掛かることを示唆し、大聖堂の増築工事は以後完全に放棄された。
増築は停止したが、大聖堂の装飾はその後も続けられ、内部は国際ゴシックルネサンスバロック美術の宝庫となっている。
シエーナ大聖堂 – 平面図

1.ファサード( wikipedia-photo )

2.アントニオ・フェデリギの聖水盆( Acquasantiere del Duomo di Siena )
3.中央身廊( wikipedia-photo )

4.ドーム( Cupola )
5.聖歌隊( Coro e abside )
6.後陣( Coro e abside )
7.高祭壇( wikipedia-photo )

8.サン・ジョヴァンニ洗礼堂( Battistero di San Giovanni (Siena) )
9.ニコラ・ピサーノの説教壇( Pulpito del duomo di Siena )
10.祝福された秘跡のチャペル( Cappella del Santissimo Sacramento )
11.地下聖堂( Cripta del Duomo di Siena )
12.サン クレセンツィオの祭壇( Transetto destro )
13.サンバーナーディーノの祭壇( Transetto destro )
14.右袖廊( Transetto destro )
15.マドンナ・デル・ヴォートのチャペル( Cappella della Madonna del Voto )
16.鐘楼( Campanile del Duomo di Siena )
17.アレクサンドリアの聖カタリナの祭壇( Navata destra )
18.聖フランシスコ・サレジオの祭壇( Navata destra )
19.サン・ジローラモの祭壇( Navata destra )
20.サン・カジェタンの祭壇( Navata destra )
21.四冠聖者の祭壇( Altare dei Santi Quattro Coronati ・Navata sinistra )
22.聖ヤコブとフィリップの祭壇( Navata sinistra )
23.エピファニーの祭壇( Navata sinistra )
24.ピッコロミニの祭壇( Altare Piccolomini )
25.マルカントーニオ・ゾンダダリ( Marc’Antonio Zondadari )の墓碑( Transetto sinistro )
26.洗礼者聖ヨハネ礼拝堂( Cappella di San Giovanni Battista (Siena) )
27.左袖廊( Transetto sinistro )
28.ピエトロ・バレストラによるピウス3世( Transetto sinistro )
29.十字架の祭壇( Transetto sinistro )
30.アルターレ デイ サンティ ピエトロ エ パオロ( Transetto sinistro )
31.聖ペテロとパウロの祭壇( Transetto sinistro )
32.ドナテッロによるジョヴァンニ・ペッチ( Giovanni Pecci )の墓石( Lastra tombale di Giovanni Pecci )
33.サンタンサーノ礼拝堂( Cappella di Sant’Ansano )
34.聖具室( Sagrestia del Duomo di Siena )
35.ピッコロミニ図書館( Libreria Piccolomini )
大聖堂内の装飾品
大聖堂の内部は、白と黒の大理石の象嵌による横縞模様で、たいへん印象的である。フィレンツェに対抗して推進されたシエーナの芸術活動は、ジョット・ディ・ボンドーネチマブーエとはまったく違うシエーナ派と呼ばれる芸術を生み出した。また、ミケランジェロ・ブオナローティジャン・ロレンツォ・ベルニーニらルネサンス、バロックの芸術作品も安置され、大聖堂そのものが宝庫であると言ってよい。現在、大聖堂のほとんどの彫刻はレプリカで、オリジナルは大聖堂美術館に保管されている。
大理石の象嵌によって構成された床も美しい。これは、14世紀から16世紀にかけて、およそ40人の芸術家によって製作された。56個のパネルから構成され、大部分には長方形だが、翼廊には六角形とひし形のものもある。
●ファサード下段-ジョヴァンニ・ピサーノ( 1297 年)
●ファサード中央ペディメントのモザイク「処女の戴冠」-ルイージ・ムッシーニ( 1878 年)
●ファサード左右ペディメントのモザイク「イエス・キリスト降誕」と「受胎告知」-アレッサンドロ・フランチ( 1878 年)
●正面入り口の青銅扉「聖母の称賛」-エンリコ・マンフリーニ( Enrico Manfrini ・ 1958 年)
身廊コーニスの聖ペテロからルキウス 3 世までの歴代教皇像
●アーチ上部の皇帝胸像
●聖歌隊のステンドグラス-ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ( 1288 年)
●ドームのスパンドレル( Spandrel )にある4つの漆喰像-ベンテュラ・ディ・ジュリアーノとバスティアーノ・ディ・フランチェスコ( Bastiano di Francesco )(1490年)
●プレステビリの大理石主祭壇-バルダッサーレ・ペルッツィ( 1532 年)
●青銅の聖龕-ロレンツォ・ディ・ピエトロ・ヴェッキエッタ( Lorenzo di Pietro Vecchietta )( 1506 年。本来はサンタ・マリア・デッラ・スカラ( Santa Maria della Scala )を飾るために 1472 年に作成)
●主祭壇の2体の天使像-フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ( 1439 年)
●後陣壁面のフレスコ画-ドメニコ・ベッカフーミ( 1912 年に一部修復)
●説教壇-ニコラ・ピサーノジョヴァンニ・ピサーノ、およびアルノルフォ・ディ・カンビオほか( 1265 年から 1268 年、階段部分は 1543 年)
誓約の礼拝堂
誓約の礼拝堂は西の翼廊に位置している。1659年に、キージ家出身のアレクサンデル7世 (ローマ教皇)の命により、15世紀の礼拝堂を取り除いて建設されたもので、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの手による。「誓約の聖母」と呼ばれる13世紀の祭壇画があり、これは今日でも尊敬され、入り口には加護に対する供物であるエクス・ヴォート(奉納画)がかけられている。対フィレンツェ戦であるモンタペルティの戦い( Battle of Montaperti ・ 1260 年 9 月 4 日)の際に捧げられた祭壇画だと信じられているが、作成された年は、1260年よりも後の時代と推測されている。 大理石彫のうち「聖ジェローム」と「マグダラのマリア」はベルニーニの作品である。
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
サン・ジョヴァンニ洗礼堂は、南の後陣の階下に位置している。1316年に大聖堂の聖歌隊席と翼廊が増築された際に、カマイーノ・ディ・クレシェンティーノによって起工された。しかし、1322年に工事の先行きが危ぶまれ、ロレンツォ・マイターニをはじめとする専門委員会による検討の結果、工事には倒壊の恐れがあるほどの欠陥ありと指摘された。この指摘を受けて、大聖堂の工事は基本的な修正を受けるかに見えたが、市議会「鐘の評議会」は結論を出すことができず、工事はそのまま続行された。最終的に評議会は工事の続行を決定したが、工事はその間も進捗し、1325年には洗礼堂が完成する。
洗礼堂の天井と祭室の壁画-ロレンツォ・ディ・ピエトロ・ヴェッキエッタほか( 1450 年から 1453 年頃)
洗礼盤-ロレンツォ・ギベルティヤーコポ・デッラ・クエルチャほか( 1416 年から 1430 年)
洗礼者ヨハネ像-ドナテッロ
ピッコロミニ祭壇
左通路に沿って位置し、シエーナ大司教フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコロミーニ( Francesco Todeschini Piccolomini )枢機卿 (後に教皇ピウス 3 世・)からアンドレア・ブレニョ( Andrea Bregno )に依頼されました。その目的は、シエーナにおけるピッコロミーニ家の政治的および文化的存在を祝うと同時に、叔父の教皇ピウス 2 世(在位:1458年 – 1464年)に壮大な芸術作品を捧げることでした。アンドレア・ブレニョは、1481 年から 1485 年にかけてカラーラ大理石の祭壇を作成しました。しかし、 1486年頃、体調を崩し契約を解除され、中央の大理石の祭壇は、次の年に彼のワークショップによって作られました。ピッコロミーニ枢機卿は、14 体の彫像を制作できる彫刻家を探し始め、最終的にピエトロ・トリジャーニ( Pietro Torrigiano ・ 1488 年- 1489 年) にその仕事を任せました。しかし、左上にある聖フランチェスコのみが彼の作品としてとどめ、トリジャーニと枢機卿の関係は完全に明確ではない理由で中断され、枢機卿は別の芸術家を探すことを余儀なくされました。1501年 6 月 19 日、銀行家ヤコポ ガリのとりなしにより、若いミケランジェロ・ブオナローティとの契約が規定されました。ミケランジェロ・ブオナローティは、まばゆいバチカンのピエタを彫刻した最初のローマ滞在で大成功を収めたばかりでした。ミケランジェロが仕事に着手するとすぐに、他の野心的な申し出が彼に降り注ぎ始めました。最初は巨大なフィレンツェダビデ像を彫刻するというものでした。アーティストは、シエーナの事業を二次的なものと見なし、たまにしか取り組みませんでした。1503年枢機卿は教皇に選出されましたが、わずか26日で亡くなりました。彼の相続人は、 1504 年10 月 11 日付の新しい契約の規定に基づいて、ミケランジェロに彫像を届けるよう説得したため、祭壇は、補助具を多用して作られた、底部の横の壁龕にある 4 つの彫像で豊かになりました。ピッコロミニの繰り返しの要求にもかかわらず、他の計画された彫刻は、シエナフランチェスコ・バンディーニ・ピッコロミニ( Francesco Bandini Piccolomini )の大司教まで納品されませんでした。 彼は 1530 年代に契約をキャンセルし、芸術家を道徳的および経済的な懸念から解放し、損害に対する罰則の可能性と、既に受け取った支払いの払い戻しに関連していました。それ以来、ピッコロミニは祭壇に興味を示さなくなり、永遠に未完成のままでした。
18 世紀の終わりに、聖母子像が屋根裏部屋の中央の壁龕に置かれました。
ピッコロミニ祭壇・wikipedia-photo、ミケランジェロの聖ペテロ・wikipedia-photo、ミケランジェロの聖ピオ・wikipedia-photo、ミケランジェロの聖パウロ・wikipedia-photo、ミケランジェロの聖グレゴリー・wikipedia-photo、祭壇・wikipedia-photo
ピッコロミニ図書館
ピッコロミニ祭壇の北隣後にあるのがピッコロミニ図書館です。1492 年にトデスキーニ・ピッコロミニ枢機卿(後の教皇ピウス 3 世) によって、叔父のピウス 2 世が収集した非常に豊かな図書館の遺産を収容するために建てられました。それは翼廊の前の左側の通路に沿って位置し、ファサードには、イル・マリナ( Il Marrina )として知られるロレンツォ・ディ・マリアーノ( Lorenzo di Mariano )による大理石の目論見書 (1497 年頃) があり、 その左側には、バンディーニ・ピッコロミーニが、1521年と1569年にそれぞれ亡くなった弟のバンディーノと甥のゲルマニコのために制作依頼した(作者と日付は不明)、復活したキリストが 2 人の天使に挟まれた記念碑があり、ファサード上にはピウス 3 世の戴冠式があります。1503 年に教皇に選出されてからわずか 26 日後に亡くなった教皇の相続人によって依頼され、1504 年にピントゥリッキオによって描かれたフレスコ画です。
内部はピントゥリッキオによってフレスコ画が描かれました。ピントゥリッキオは 2 段階で作業を行いました。最初の段階は 1502 年から 1503 年にかけて行われ、正確には 1503 年に起こったクライアントのピウス 3 世の死によって中断されました。 1505 年と 1507 年。フレスコ画には、教皇ピウス 2 世の生涯の出来事が描かれています。フレスコ画下には、リベラーレ・ダ・ヴェローナ( Liberale da Verona )とジローラモ・ダ・クレモナ( Girolamo da Cremona ) (15 世紀後半) による数多くの貴重なアンティフォン( Antifona )と、顧客がローマで購入し、ヘレニズム時代の作品のローマのコピーと見なされた三美神の大理石の彫像が含まれています。
マリーナの目論見書・wikipedia-photo、バンディーノとゲルマニコ・ピッコロミーニの記念碑・wikipedia-photo、ピントゥリッキオによるピウス 3 世の戴冠式・wikipedia-photo、ピッコロミニの紋章・wikipedia-photo、ボールト・wikipedia-photo、三美神・wikipedia-photo
ウィキメディア・コモンズには、シエナ大聖堂に関連するメディアがあります。]

シエナ大聖堂 – Google Map 画像リンク」、「ドゥオモ広場 – Google Map 画像リンク

シエナ大聖堂の鳥瞰カメラです。

シエーナ大聖堂ファサードのカメラです。

カウンターファサードのカメラです。

シエーナ大聖堂ドーム下・南身廊のカメラで、カメラ北西方向に26.洗礼者聖ヨハネ礼拝堂、東南東方向に15.マドンナ・デル・ヴォートのチャペルが見えます。

26.洗礼者聖ヨハネ礼拝堂のカメラです。

15.マドンナ・デル・ヴォートのチャペルのカメラです。

シエーナ大聖堂ドーム下のカメラで、カメラ初期設定方向左に 9.ニコラ・ピサーノの説教壇 があり、カメラ西方向に29.十字架の祭壇、東方向に13.サンバーナーディーノの祭壇があります。

シエーナ大聖堂高祭壇前のカメラで、高祭壇を囲んで聖歌隊席があります。

8.サン・ジョヴァンニ洗礼堂のカメラです。

シエーナ大聖堂後部ファサードのカメラです。

カメラ方向左がピッコロミニ祭壇で右がピッコロミニ図書館ファサードです。

ピッコロミニ図書館のカメラです。