シエーナの起源は明確にはわかっておらず、古いローマの都市であるとする伝説もあるが、根拠はない。シエーナが歴史の表舞台に立つのは、東ゴート王国が滅び、東ローマ帝国による短い統治があった後、イタリア半島北部にランゴバルト王国が成立してからである。イタリア半島の統治が困難になったとは言え、アドリア海での東ローマ帝国の勢力は依然として大きく、ランゴバルト王国は物資の運搬路をフランス街道に移さざるを得なかった。シエーナはこの街道の中継基地として、主に金融業によって発展した。
西ヨーロッパ全体の経済活動が活発になり、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアといった港湾都市は、貿易によって巨万の富を得るようになった。シエーナも、これらの都市との金融取引によって潤沢な資金を得、13世紀までに西ヨーロッパ最大の金融街として栄えた。11世紀まで、現在のカステルヴェッキオ一帯にしか広がっていなかった市街地は、13世紀中期には現在の市街地にほぼ匹敵する大きさにまで拡張している。他の中世イタリアの都市と同じく、シエーナも12世紀にはコムーネが組織され、都市機能は自治共同体によって運営された。
金融業によって急速に力を得たシエーナは、やはり金融業によって勃興したフィレンツェとトスカーナの覇権をめぐって衝突することになる。これにグエルフィ(教皇党)とギッベリーニ(皇帝党)という政治的思惑もからみ、13世紀になると、熾烈な武力衝突を繰り返した。1260年のモンタペルティの戦い( Battaglia di Montaperti )でシエーナはフィレンツェを破り、トスカーナの覇権を握ったが、わずか5年の後、ローマ教皇(アレクサンデル4世・在位:1254年 – 1261年)の誘いに応じて南下したフランス王国がグエルフィ同盟を結成、ギッベリーニ(皇帝派)を標榜するシエーナは孤立した。1269年、シエーナはフィレンツェとフランスの連合軍に決定的敗北を喫し、次第にシエーナの経済活動はフィレンツェに遅れをとりはじめた。
フィレンツェに覇権を奪われたとは言え、ノーヴェ体制を有するシエーナの経済活動はなお盛んであった。シエーナの芸術活動が最も盛んになるのは、この13世紀末から14世紀中期までの時期である。しかし、1350年頃からはじまり、一説では人口の半分が犠牲になったとされる黒死病の流行により、シエーナの全ての活動は停止する。以後、芸術活動は続けられるものの、そのきらめきを取り戻すことはなかった。 (wikipedia・シエーナ歴史地区より)
シエーナ市街は、カンポ広場を中心に、via di citta‘、banchi di sopra、banchi di sottoの3つの通りが丘の尾根を放射状に外に向かって伸びており、これらが街の基本的な骨格となっている。
市街は17のコントラーダ(contrade)とよばれる地区に分けられている。年に2回、カンポ広場で行われるパーリオ (Palio) と呼ばれる裸馬のレースは、コントラーダ対抗の形で行われる(シエーナのパーリオ参照)。 (wikipedia・シエーナより)
シエナ駅、カモリアのアンチポート、カモリア門、グラムシ広場(Piazza Gramsci)・バス停留所、メディチ要塞、サン・フランチェスコ聖堂、サンベルナルディーノ教会の礼拝所、サンタ・マリア・ディ・プロヴェンツァーノ教会、サリンベーニ宮殿、サンタ カテリーナの聖域、サン・ドメニコ教会、フォンテブランダ、サンタ・マリア・デッラ・スカラ救済院、サンティシマ・アヌンツィアータ教会、シエナ大聖堂、マグニフィコ宮殿、オペラ・デル・ドゥオーモ美術館、パラッツォ・レアーレ、キージ・サラチーニ宮殿、カンポ広場、プッブリコ宮殿、ピッコロミニ宮殿、シエーナのシナゴーグ、サント・スピリト教会、ピスピニの門、サンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会、シエーナ国立美術館、聖オーガスティン教会、ロマーナ門