ムーアの城跡

マーカーはムーアの城壁跡南端です。

ムーアの城跡
[ムーアの城跡(Castelo dos Mouros) – 7から8世紀にムーア人によって建設された。現在は、廃墟のようになっている。  (wikipedia・シントラより)]

[シントラ駅を出て右手に折れ、名所を循環するスコトゥーブ社の路線バスに乗った。おとぎ話から抜け出したような町並みはすぐに終わり、狭い山道に入った。曲がりくねった急坂をバスは巧みに登っていく。薄暗い森を抜けると、近代的な造りの平屋の前で停車した。ムーアの城跡のチケット売り場だった。
バスはこの先、山の上のペーナ宮殿まで行く。ほぼ満席だったが、ムーアの城跡前で降りたのは私たち2人だけだった。
チケット売り場でムーアの城跡とペーナ宮殿のセット入場券を買い、周辺の地図をもらった。チケット売り場のすぐ目の前が城跡の公園の入り口だ。そこから城跡までの間に城門がいくつかある。地図で見る限り、公園の入り口は最初の城門らしい。
ムーアの城跡は、北西アフリカからイベリア半島まで勢力を伸ばしていたイスラム教徒のムーア人が、7〜8世紀ごろに建てたといわれる望楼だ。1147年、のちにポルトガルの初代王となるアフォンソ・エンリケス(在位:1139年 – 1185年)がムーア人から奪った。  (「シントラ1 ムーアの城跡」より)]

[ムーアの城として一般に知られているシントラ城は、ポルトガルリスボン県にあるシントラの自治体であるサン・ペドロ・デ・ペナフェリム(São Pedro de Penaferrim)の教区であるシントラの村にあります。
エストレマドゥーラ(Estremadura)のシントラ山脈(serra de Sintra)の山頂の1つで壁の上部から隔離された岩だらけの山塊で発生し、そのすべての自然環境の特権的な眺望が大西洋に向かって広がっています。
背景
現代の考古学的研究は、シントラ地域の最も初期の痕跡が紀元前10世紀から8世紀に遡ることを明らかにしています。
イベリア半島へのイスラム教徒の侵入の時点の、8世紀からこの地域は占領され、その村は「as-Shantara」と名付けられました。
学者は、シントラとマフラカスカイスリスボンを結ぶ道路を戦略的に制御する目的で、8世紀から9世紀にかけて岩壁を利用した原始的な要塞化が始まったとしています。
19世紀、ポルトガル女王マリア2世(在位:1826年 – 1853年)の第二治世(1834年 – 1853年)下で、彼女の配偶者で共同統治王フェルナンド2世は、中世の再発見の衝動の下で、1839年にリースによって古い城を手に入れ、アマチュア的ではあるが、構造物が置かれた劣化の進行状態を止めるメリットがある大規模な再建工事を促進しました。
ムーアの城と貯水槽は、ポルトガル王国の最後の国王マヌエル2世(在位:1908年2月1日 – 1910年10月4日)の治世中、1910年6月23日に発行された法令により国定記念物に分類されています。 記念碑へのポルトガル政府の介入は、1939年のエスタドノボから始まり、壁の一部が再建されました。 わずかな介入(1954年、1965年)の後、1986年に城のさまざまな地域の石積み、階段、胸壁を掃除して再建する作業が行われ、1992年の新しいキャンペーンで壁の掃除の作業が繰り返されました。
1995年にユネスコによって世界文化遺産に分類されました。
「シントラ、ポルトガルの城:壁からの眺め。」・wikipedia-photo、「シントラの城壁の外観。フラグ – アラビア語で「シントラ」」・wikipedia-photo、シントラの城:イスラムドア・wikipedia-photo、シントラの城:塔の眺め・wikipedia-photo、シントラの城:サンペドロデCanaferrimの教会の遺跡・wikipedia-photo、シントラの城:タンクの通気口・wikipedia-photo、霧の中シントラの城・wikipedia-photo]

Castelo dos Mouros – Google Map 画像リンク

カメラ南方向がチケット販売所です。

カメラ北北西方向がムーアの城跡登り口です。カメラ南東方向にもチケット販売所があります。

ムーアの城壁内のカメラです。

カメラ位置はムーアの城壁跡南端で、カメラ北北東方向に城壁跡が見え、カメラ南方向にペーナ宮殿が見えます。

カメラ位置はムーアの城壁跡北端です。

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