チューリヒ美術館

マーカーはチューリヒ美術館です。

[Google アートプロジェクト] – 「チューリヒ美術館

チューリヒ美術館(英語:Kunsthaus Zürich、ドイツ語:Kunsthaus Zürich)
[チューリヒ美術館(Kunsthaus Zürich)は、スイスチューリヒにある美術館である。1910年開館。
後期ゴシックイタリアバロックオランダ絵画、フランドル絵画から印象派絵画、表現主義絵画まで所蔵している。また、フェルディナンド・ホドラーなどスイスの芸術家の作品のほか、アルベルト・ジャコメッティの彫刻72点をはじめとするコレクションも有名。その他にも素描版画写真やビデオ作品のコレクションもある。
チューリヒ美術館・wikipedia-photo
  (wikipedia・チューリヒ美術館より)]

[1787年に始まる長い歴史を誇る美術館には、フェルディナント・ホドラーなどスイス芸術家の有名作品のほか、後期ゴシックやイタリア・バロックの名作、レンブラントなどのオランダ絵画、ルーベンスなどのフランドル絵画から、マネクロード・モネポール・セザンヌゴッホゴーギャンなどのフランス印象派絵画、ムンクココシュカなどの表現主義絵画まで、各時代を代表するような巨匠の名画がそろっています。なかでも、世界でもほかに類をみないアルベルト・ジャコメッティのコレクションも必見。本人と弟のブルーノから寄贈された彫刻72点、絵画17点、デッサン62点を所蔵しており、ジャコメッティの幅広い芸術の世界を一同にみることができます。そのほか美術館には、15世紀から現在までの素描や版画を集めた約8万点のグラフィック・コレクションや、写真やビデオ作品の充実したコレクションなどもあります。
■開館時間
10:00〜18:00 (水・木は20:00まで)
■休館日 – 月曜
※館内整理や祝日などで臨時休館する場合もあります  (「スイス政府観光局 – チューリヒ美術館」より)]

チューリッヒ美術館 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向がチューリヒ美術館です。

アルベール・アンカー作『Auf dem Ofen』(1895年)(commons.wikimedia)

アルベール・アンカー作『民事婚』(1887年)(commons.wikimedia)

エドゥアール・マネ作『ロシュフォールの脱出(Die Flucht des Rochefort)』(1881年)(wikipedia-photo)

アンリ・ルソー作『X氏の肖像(ピエール・ロティ)(Porträt des Herrn X (Pierre Loti))』(1906年)(wikipedia-photo)

クロード・モネ作『日没時の国会議事堂(Das Parlament bei Sonnenuntergang)』(1904年)(wikipedia-photo)

ポール・セザンヌ作『Le Mont St. Victoire』(1904-1906年)(wikipedia-photo)

カスパー・ヴォルフ作『ヴェッターホルン、メッテンベルク、アイガーのあるグリンデルヴァルト渓谷のパノラマ』(1774年)(commons.wikimedia)

  
フィンセント・ファン・ゴッホ作『ジャガイモを植える農夫の男女』(1885年4月)(wikipedia-photo)

[1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。彼は弟テオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのは彼であり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した。
1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる『ジャガイモを食べる人々』を完成させた。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ファン・ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人アントン・ファン・ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ファン・ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った。
夏の間、ファン・ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する。一方、『ジャガイモを食べる人々』のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ファン・ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ニューネン(1883年末-1885年)より)]

ファン・ゴッホ作『タチアオイのある花瓶』(1886年8月-9月)(wikipedia-photo)

[1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画(wikipedia-photo)を描いている。
彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)]

ファン・ゴッホ作『サントマリーの3つの白い小屋』(1888年6月初頭)(wikipedia-photo)

(拡大画像リンク)
[ファン・ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった。同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、ラマルティーヌ広場に面した黄色い外壁で2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。
5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#アルル(1888年-1889年5月)より)]

ファン・ゴッホ作『自画像(包帯をしてパイプをくわえた自画像)』(1889年1月)(wikipedia-photo)

[1888年12月23日、ファン・ゴッホが自らの左耳を切り落とす事件が発生した。12月30日の地元紙は、次のように報じている。
『先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼館1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、「この品を大事に取っておいてくれ」と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。
— 『ル・フォロム・レピュブリカン』1888年12月30日』
ファン・ゴッホ自身はこの事件について何も語っていない。
ファン・ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った。ゴーギャンも、テオと同じ夜行列車でパリに戻った。テオは、帰宅すると、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学や神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している。アルル市立病院での担当医は、当時23歳で、まだ医師資格を得ていない研修医のフェリックス・レーであった。レー医師は、出血を止め、傷口を消毒し、感染症を防止できる絹油布の包帯を巻くという比較的新しい治療法を行った。郵便夫ジョゼフ・ルーランや、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・フレデリック・サルがファン・ゴッホを見舞ってくれ、テオにファン・ゴッホの病状を伝えてくれた。12月27日にオーギュスティーヌ・ルーランが面会に訪れた後、ファン・ゴッホは再び発作を起こし、病院の監禁室に隔離された。
しかし、その後容態は改善に向かい、ファン・ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月4日の「黄色い家」への一時帰宅許可を経て、1月7日退院許可が下り、ファン・ゴッホは「黄色い家」に戻った。
退院したファン・ゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた『ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女』も完成させた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]
 
ファン・ゴッホ作『シャポンヴァルのわらぶき屋根の砂岩造りの家々』(1890年7月)(wikipedia-photo)

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[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]

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