バイエラー財団美術館

マーカーはバイエラー財団美術館です。

バイエラー財団美術館(英語:Beyeler Foundation、フランス語:Fondation Beyeler)
[バイエラー財団は、バーゼル近郊のリーエン(Riehen)にあるスイスの私立の文化団体である。この財団は、美術商エルンスト・バイエラー(Ernst Beyeler)と彼の妻のヒルディ・バイエラーによって収集されたモダン・アートコンテンポラリー・アートのコレクションを所有している。
エルンスト・バイエラー(1921-2010)と彼の妻のヒルディ・バイエラー(1922-2008)は、数十年間にわたり20世紀の芸術作品(主に絵画と彫刻)を収集してきた。そして、子どもがいなかったことから、1982年にこれらのコレクションを財団に委ねることを決定した。 コレクションの初公開は1989年にマドリードソフィア王妃芸術センターで行われた。財団美術館の開館は1997年である。
美術館の建物はポンピドゥーセンターの2人の建築家のうちの1人であるレンゾ・ピアノによって建設された。美術館を囲む庭園内にアレクサンダー・カルダーのモビール「L’arbre(木)」がある。 美術館の3つの部屋の窓際にはスイレンの広がる池がある。
コレクション
美術館内に200点ほどの絵画・彫刻が展示されている。 コレクションとして、クロード・モネポール・セザンヌ アンリ・ルソーパブロ・ピカソジョアン・ミロなどの20世紀始めの印象派ポスト印象派およびキュビスムの作品と、エルズワース・ケリーバーネット・ニューマンマーク・ロスコなどの1950年代アメリカ絵画を収集している。 財団はエドヴァルド・ムンク、ピカソ、アンリ・ルソーなどの大規模な企画展を定期的に開催している。
バイエラー財団・wikipedia-photo、内観・wikipedia-photo  (wikipedia・バイエラー財団より)]

バイエラー財団 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向がバイエラー財団美術館です。

ポール・セザンヌ作『Forest Scene (Path from Mas Jolie to Château noir)』(1900-02年)(wikipedia-photo)

エドガー・ドガ作『青いチュチュを着た3人のダンサー』(1903年)(wikipedia-photo)

クロード・モネ作『The Japanese Bridge』(1918-24年)(wikipedia-photo)

クロード・モネ作『睡蓮の池』(1917/1920年)(commons.wikimedia)

  
フィンセント・ファン・ゴッホ作『小麦の山のある畑』(1890年7月)(wikipedia-photo)

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フィンセント・ファン・ゴッホ作『ヤグルマギクのある麦畑』(1890年7月)(wikipedia-photo)

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[1890年5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。このころ、弟テオに大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。
7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったファン・ゴッホが帰り着いた。旅館の主人に呼ばれて彼の容態を見たガシェは、同地に滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重の暈に囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、既に外への出血はなかったという。両名は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした。ガシェは、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオは兄のもとに急行した。彼が着いた時点ではファン・ゴッホはまだ意識があり話すことが出来たものの、29日午前1時半に死亡した。37歳没。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]