バーゼル市立美術館

マーカーはバーゼル市立美術館です。

バーゼル市立美術館
[バーゼル市立美術館 (Basler Kunstmuseum) は、スイスバーゼルにある美術館である。単にバーゼル美術館と呼ばれることもある。バーゼル市立現代美術館(Museum of Contemporary Art (Basel))とは姉妹館であり、入場券も共通である。
1671年に開設された世界最古の公共美術館の1つである。自由都市バーゼルで印刷業などで財を成したアマーバッハ家(Amerbach Cabinet)がコレクションした美術品をバーゼル市が購入し公開したものが基となっている。アマーバッハ家の後援を受けたハンス・ホルバインのコレクションをはじめ、西欧絵画のコレクションが充実している。また、ダダイスムシュルレアリズムなど、現代美術も所蔵している。
外観・wikipedia-photo、中庭 – ロダン作「カレーの市民」がある・wikipedia-photo  (wikipedia・バーゼル市立美術館より)]

バーゼル美術館Kunstmuseum Basel – Google Map 画像リンク

バーゼル市立美術館前のカメラです。

中庭 – ロダン作「カレーの市民

アルベール・アンカー作『子供の朝食』(1879)(commons.wikimedia)

アンカー作『1848年からの村の学校』(1896年)(commons.wikimedia)

アンカー作『干し草で眠っている少年』(1897年)(commons.wikimedia)

フィンセント・ファン・ゴッホ作『燻製ニシンのある静物』(1886年夏)(wikipedia-photo)

ファン・ゴッホ作『モンマルトルからのパリの眺め』(1886年晩夏)(wikipedia-photo)

ファン・ゴッホ作『自画像(日本画のあるもの)』(1887年12月)(wikipedia-photo)

ファン・ゴッホ作『女性の肖像(タンギー夫人?)』(1886年-1887年の冬)(wikipedia-photo)

[1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されている弟テオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ファン・ゴッホの生活について分かっていないことが多い。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはファン・ゴッホの肖像画(wikipedia-photo)を描いている。
ファン・ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。
彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)]

ファン・ゴッホ作『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』(1890年6月)(wikipedia-photo)

[体調が回復した1890年5月、ファン・ゴッホは、カミーユ・ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。
同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。6月初めには、さらに『オーヴェルの教会』を描いた。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた。]

ファン・ゴッホ作『ドービニーの庭』(1890年7月)(wikipedia-photo)

(画像拡大リンク)
[この頃、パリの弟テオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、妻ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている。7月6日、ファン・ゴッホはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、アルマン・ギヨマンも来るはずだったが、ファン・ゴッホは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない。ファン・ゴッホは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』)を描き上げたことを伝えている。  (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]