マーカーはビュールレ・コレクションです。
ビュールレ・コレクション(英語:Foundation E. G. Bührle、ドイツ語:Stiftung Sammlung E. G. Bührle)
[チューリッヒ湖を見下ろす高台にある瀟酒な邸宅にある世界屈指の印象派コレクションを収めた美術館。(※2021 年 10 月に、ビュールレ コレクションはチューリッヒ美術館の新築増築地(チッパーフィールド棟・Chipperfield-Bau)に移転しました。)
スイスで財を成した実業家で、有名な蒐集家であったエミール・ビュールレEmil Bührle氏の個人コレクションです。1956年にビュールレがこの世を去った後に、長年暮らしたチューリヒに遺族が財団を設立し、1960年に美術館がオープンしました。
とくに代表的な存在である印象派作品を中心に収蔵点数は約200点。何といっても、そのコレクションの質の高さが特筆もので、世界的に高く評価されています。ルノワールの『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』やクロード・モネの『ジヴェルニーの庭』、ゴッホの『種をまく人』(1888)やエドガー・ドガの『待合室の踊子たち』など、教科書でみたことのあるような巨匠たちの代表作がそろっています。
1886年に建てられた由緒ある邸宅は、ビュールレ自身が作品を保管するために使用しており、名画を飾って楽しんでいた特別な空間。まさに世界的なコレクターの私邸に招かれたような気持ちで世界的な名作を堪能することができます。しかし、2008年2月に4枚の名画(約175億円の価値)が盗まれるという事件があり、一般公開が制限されるようになりました。将来的には、このコレクション全体が大規模な拡張計画のあるチューリヒ美術館に移管されることになっています(2020年予定)。多くのリクエストにこたえ、グループ向けの特別ツアーと、月に一度の個人向けガイドツアーをおこない、一般公開しています。
開館日:毎月第一日曜
ガイドツアーでのみ入館可/事前予約が必要/CHF25 (「スイス政府観光局 – ビュールレ・コレクション」より)]
[ビュールレ・コレクション (Stiftung Sammlung E. G. Bührle) は、スイスのチューリッヒにある印象派の美術館。 エミュール・ビュールレの個人コレクションを一般に開放したもの。 2021 年 10 月に、ビュールレ コレクションはチューリッヒ美術館の新築増築地(チッパーフィールド棟・Chipperfield-Bau)に移転しました。
公式サイト上では「バーチャルツアー」として擬似的に館内を探訪でき、各展示ごとに解説を見ることができる。
ビュールレ コレクション – チューリッヒ美術館(チッパーフィールド棟・Chipperfield-Bau)2階・wikipedia-photo
所蔵作品
● 『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』(1880年) ピエール=オーギュスト・ルノワール
● 『ジヴェルニーのモネの庭』 クロード・モネ
● 『自殺』(1877-81年)エドゥアール・マネ
● 『肘掛椅子の上のひまわり』(1901) ポール・ゴーギャン
● 『パレットを持つ自画像』(1890) ポール・セザンヌ
● 『種をまく人(ミレーによる)』(1888) フィンセント・ファン・ゴッホ
● 『待合室の踊子たち』(1889年頃) エドガー・ドガ
● 『婦人帽子店』(1885-86年)ポール・シニャック
盗難
2008年2月10日、1億8000万スイスフラン(約175億円)の価値のある以下の4枚の絵画が武装した強盗団によって盗まれた。
● 『赤いチョッキの少年』(1894/1895) ポール・セザンヌ
● 『ルピック伯爵と娘たち』(1871) エドガー・ドガ
● 『ヴェトゥイユ近辺のひなげし』 (1879) クロード・モネ
● 『花咲くマロニエの枝』(1890) フィンセント・ファン・ゴッホ
『ヴェトゥイユ近辺のひなげし』と『花咲くマロニエの枝』は同年2月18日にチューリッヒ市内の駐車場で発見された。『赤いチョッキの少年』は2012年4月12日、強奪に関与した容疑者らをベオグラードで逮捕した際に発見された。『ルピック伯爵と娘たち』の行方は未だ不明。
ルノワール作『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』(1880年)(wikipedia-photo)
クロード・モネ作『ヴェトゥイユ近郊のひなげし畑』(1879年)(wikipedia-photo)
ファン・ゴッホ作『ニュネンの古い教会の塔』(1884年5月)(wikipedia-photo)
ファン・ゴッホ作『アニエールでセーヌ川にかかる橋』(1887年夏)(wikipedia-photo)
[1886年2月末、ファン・ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されている弟テオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通り(Rue Lepic)のアパルトマンに2人で転居した。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している。
同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている。他方、その頃から、ファン・ゴッホは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#パリ(1886年-1888年初頭)より)]
ファン・ゴッホ作『自画像』(1887年-1888年の冬)(wikipedia-photo)
ファン・ゴッホ作『種をまく人(ミレーによる)』(1888年11月)(wikipedia-photo)
(拡大画像リンク)
[1888年10月23日、ポール・ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ファン・ゴッホの『赤い葡萄畑』)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリーをモデルに絵を描いた(ファン・ゴッホの『アルルの女』)。ゴーギャンはファン・ゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ファン・ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた。しかし、ファン・ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことを弟テオに伝えている。11月下旬、ファン・ゴッホは2点の『種まく人』を描いた。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#ゴーギャンとの共同生活より)]
ファン・ゴッホ作『雪の畑で土を掘る2人の農婦』(1890年3月-4月)(wikipedia-photo)
ファン・ゴッホ作『花咲くマロニエの枝』(1890年5月)(wikipedia-photo)
[体調が回復した1890年5月、ファン・ゴッホは、カミーユ・ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に『糸杉と星の見える道』を描いてから、5月16日サン=レミの療養所を退所した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った。
同年(1890年)5月20日、ファン・ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ファン・ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」と妹ヴィルに書いている。ファン・ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした。
ファン・ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた。 (wikipedia・フィンセント・ファン・ゴッホ#オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)より)]
ウィキメディアコモンズには、ビュールレ・コレクションの画像またはその他のファイルが含まれています。 (wikipedia・ビュールレ・コレクションより)]
チューリッヒ美術館のチッパーフィールド棟(Chipperfield-Bau)前のカメラです。