ストラスブール大聖堂

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ストラスブール大聖堂
[ストラスブール大聖堂またはノートルダム=ド=ストラスブール大聖堂(フランス語: Cathédrale Notre-Dame-de-Strasbourg、 ドイツ語: Liebfrauenmünster zu Straßburg)は、フランスストラスブールにあるカトリック大聖堂である。その大部分はロマネスク建築だが、一般にゴシック建築の代表作とされている。主な建築者としてはエルヴィン・フォン・スタインベック(Erwin von Steinbach)がいる。1277年から1318年に死ぬまで建設に関わった。
高さ142メートルで、1647年から1874年まで世界一の高層建築だった。1874年にハンブルク聖ニコライ教会に高さを追い抜かれた。現在は教会としては世界第6位の高さである。
ヴィクトル・ユーゴーは「巨大で繊細な驚異」と評した。アルザス平原のどこからでも見え、遠くはヴォージュ山脈ライン川の反対側にあるシュヴァルツヴァルトからも見える。ヴォージュ産の砂岩を建材として使っており、それによって独特なピンク色を呈している。
ストラスブールがアルゲントラトゥムと呼ばれた時代にはこの場所に古代ローマの聖域があり、その後ストラスブール大聖堂が建設されるまでいくつかの宗教建築物が次々とここに建てられた。
建設はクワイヤと北の翼廊からロマネスク様式で始まり、記念碑的側面や高さの面で皇帝大聖堂と呼ばれる建物に着想を得ていた。しかし1225年、シャルトルから来たチームがゴシック建築の様式にすることを示唆し、建設方針が大転換された。身廊は既にロマネスク様式で建設が始まっていたが資金不足に陥ったため、教会は1253年に贖宥状(しょくゆうじょう)を発行して資金を集め、この資金で建築家と石工を雇った。シャルトルのチームの影響は彫刻にも見られる。有名な「天使の柱 (Pilier des anges)」は南の翼廊の天文時計の隣にあり、最後の審判を柱で表現している。
ストラスブール市自体と同様、この大聖堂はドイツ風のミュンスターとフランス文化の影響を受ける一方、東側の構造(例えば、クワイヤや南の玄関)は特に窓よりも壁が強調されている点からロマネスク様式の特徴が色濃く残っている。
とりわけ数千の彫刻で装飾された西側のファサードはゴシック時代の傑作とされている。尖塔は当時最先端の技術を駆使したもので、石が高度に直線的に積まれ、最終的な見た目は一体となっている。それまでのファサードも確かに事前に設計した上で建設されたが、ストラスブール大聖堂のファサードは事前設計なしでは建設不可能だった。ケルン大聖堂と共に設計図を使った初期の建築物とされている。アイオワ大学の Robert O. Bork の研究によれば、ストラスブール大聖堂のファサードの設計はほとんど無作為にも思える複雑さだが、一連の八角形を回転させた図形を使って構成されていることを示唆した。
1439年に完成した尖塔は1647年(シュトラールズントのマリエン教会の尖塔が焼け落ちた年)から1874年(ハンブルクの聖ニコライ教会の尖塔が完成した年)まで世界一高い建築物だった。ファサードを対称にするためもう1つの尖塔が計画されていたが作られることはなく、独特な非対称の形状になった。見通しがきく場所なら30kmの距離から塔が見え、ヴォージュ山脈からシュヴァルツヴァルトまでライン川沿いで見える。塔は四角い柱体部分を Ulrich Ensingen、八角形の尖塔部分をケルンの Johannes Hültz が建設した。Ensingen は1399年から1419年、Hültz は1419年から1439年に建設を行った。
1505年、建築家 Jakob von Landshut と彫刻家 Hans von Aachen が北の翼廊の外にあるPortail Saint-Laurent(ポルタイユ・サンローラン。サンローラン玄関 ) の修復を完了した。この部分はゴシック後期、ルネサンス前期の様式が目立つ。ストラスブール大聖堂の他の玄関と同様、設置されている彫像の多くはレプリカで、本物はストラスブール市内にあるルーヴル・ノートルダム美術館(Musée de l’Œuvre Notre-Dame)に移されている。
第二次世界大戦中、ストラスブール大聖堂は両陣営から象徴とみなされた。アドルフ・ヒトラーは1940年6月28日にストラスブールを訪問し、大聖堂を「ドイツ人民の国家的聖域」にしようとした。1941年3月1日、フィリップ・ルクレール将軍は「クフラの誓約」として「ストラスブール大聖堂の上に再び我々の美しい国旗がたなびくまで、決して武器を置かない」と誓った。また、ドイツ軍はストラスブール大聖堂のステンドグラスを74枚取り外し、ドイツ本国のハイルブロン近郊の岩塩鉱山に隠した。戦後、アメリカ軍がこれを発見し、大聖堂に返還した。
大聖堂は1944年8月11日のストラスブール中心部への英米軍の空襲で被害を被った。1956年、欧州評議会Max Ingrand 作の有名なステンドグラス窓「ストラスブールの聖母」を大聖堂に寄付した。この戦争での損傷が完全に修復されたのは1990年代初頭のことである。
ストラスブール大聖堂・wikipedia-photo、ストラスブール大聖堂の八角形の尖塔部分を設計した建築家 Johannes Hültz の像・wikipedia-photo、ストラスブール大聖堂を側面から見た全景・wikipedia-photo、尖塔の下にある展望台から大聖堂を見渡したところ・wikipedia-photo、ロマネスク様式のクワイヤ・wikipedia-photo、サンローラン玄関にある東方三博士と聖母子像・wikipedia-photo、「身廊から本堂を見た様子。内陣障壁はない。」・wikipedia-photo、「ストラスブール大聖堂の南側にあるフライング・バットレス」・wikipedia-photo、緑色の光線に照らされた説教壇・wikipedia-photo、オリーブ山のキリスト・wikipedia-photo、「カナの婚宴。タペストリーの1つ」・wikipedia-photo、天文時計・wikipedia-photo、西のファサードの中央玄関脇の彫像群・wikipedia-photo、ファサード右側の玄関上の彫刻・wikipedia-photo、聖母戴冠のレリーフ・wikipedia-photoガーゴイルwikipedia-photo、バラ窓(内側)・wikipedia-photo、バラ窓(外側)・wikipedia-photo、大オルガン・wikipedia-photo、『「眼鏡をかけた皇帝」。13世紀のステンドグラス。現在はルーヴル・ノートルダム美術館にある。』・wikipedia-photo  (wikipedia・ストラスブール大聖堂より)]

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カメラ北東方向がストラスブール大聖堂です。

ストラスブール大聖堂身廊・説教台横のカメラです。

ストラスブール大聖堂身廊・説教台とクワイヤの間のカメラです。

クワイヤ前のカメラです。

カメラ北北西方向がストラスブール大聖堂尖塔です。

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