コマレス宮(ファザード、アラヤネスの中庭、バルカの間、大使の間)

    [「アルハンブラ宮殿、ナスル朝宮殿」・wikipedia-photo、「アルハンブラ宮殿、ナスル朝宮殿、コマレス宮」・wikipedia-photo、夜のアラヤネスのパティオ・wikipedia-photo、大使の間・wikipedia-photowikipedia-photo  (wikipedia・アルハンブラ宮殿より)]

    コマレス宮(アラヤネスの中庭、バルカの間、大使の間)
    [「アラヤネスの中庭」(Patio de los Arrayanes)では、細長い池と両脇の天人花(アラヤネス)の生垣の緑が整然とした空間を作っています。この中庭から「バルカの間」(Sala de la Barca)を経て、王宮で一番広い「大使の間」(Salon de Embajadores)に行き着きます。ここは、王の謁見などが行われていた場所で、イスラム最後の王ボアブディル(1482-1483、 復位1487-1492)がカトリック両王への明け渡しを決定した間として有名です。  (「Granadaのアルハンブラ宮殿, スペイン: Granadaのモニュメント |日本 …」より)]

    コマレス宮(アラヤネスの中庭)・wikipedia-photo

    コマレス宮(ファザード)・wikipedia-photo

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    コマレス宮(バルカの間)・wikipedia-photo

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    コマレス宮(大使の間)・wikipedia-photo

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    【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】(「むらさきホームページ」より)

    アルハンブラ宮殿 平面図(「グラナダの アルハンブラ宮殿 (スペイン) | イスラーム建築の名作 …」より)

    Patio del Cuarto Dorado Alhambra – Google Map 画像リンク」「Patio de Comares – Google Map 画像リンク」「Nasrid Palaces – Google Map 画像リンク」「Fachada de Comares – Google Map 画像リンク」「Torre de Comares – Google Map 画像リンク

    メスアールの中庭(金の中庭)のカメラで、南南西方向がコマレス宮のファザードで、左口からアラヤネスの中庭(天人花の中庭)に抜けます。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑥です。)

    アラヤネス(天人花の中庭)の中庭南側のカメラで、カメラ北方向がバルカの間、大使の間方向です。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑦から⑧⑨方向です。)

    カメラ位置はバルカの間前で、カメラ初期設定方向がカルロス5世宮殿(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の①です。)方向になります。

    バルカの間の360citiesです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑧です。)

    バルカの間のカメラです。

    大使の間の360citiesです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑨です。)

    大使の間のカメラです。

    [イスラーム教徒イベリア半島に進出する前8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国(415年 – 711年)の支配下にあった。711年、ウマイヤ朝(661年 – 750年)の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
    イベリア半島では11世紀前半から、キリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタ(718年 – 1492年)が本格化し、1085年にはトレド、1236年にはコルドバ、1246年にはセビーリャを陥れた。イスラーム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 – 1492年)の時代に入ってからである。メディナ出身デアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)、および、その子ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない。)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世(Yusuf I、1333-1354)とその息子のムハンマド5世((Muhammed V、1354-1359, 復位1362-1391)の時代である。ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある。)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。  (wikipedia・アルハンブラ宮殿より)]

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