プラサ・デ・イサベル・ラ・カトリカ

マーカーはプラサ・デ・イサベル・ラ・カトリカです。

プラサ・デ・イサベル・ラ・カトリカ
[イザベル女王とコロンブスの銅像が鎮座する広場です。広場と呼ぶにはとても小さく、空きスペースに作られた銅像を置くための場所、と呼ぶのが正しいかも?
ヨーロッパの広場というと、大抵はカフェで埋め尽くされたりするものですが、ここは道路に囲まれているため何もありません。ランドマークとするには小さい広場ですが、街歩きの目印として活躍してくれると思います。この広場からちょっと進むとアルハンブラ宮殿も含めて様々な方面へのバス停があります。ここ近辺に宿をとると観光に便利だと思います。  (「イサベル・ラ・カトリカ広場@グラナダ -ANAの旅の情報サイト-」より)]

イサベル1世とコロンブス
[1486年5月1日、メディナ・セリ公(伯爵)ドン・ルイス・デ・ラ・セルダが紹介してクリストファー・コロンブスコルドバイサベル1世_(カスティーリャ女王)とその夫フェルナンド2世_(アラゴン王)[カトリック両王]に謁見した。コロンブスの話にフェルナンド2世はあまり興味を持たなかったが、イサベル1世は惹きつけられた。計画は、懺悔聴聞師のグラナダ初代大司教エルナンド・デ・タラベラ(フライ・エルナンド・デ・タラベーラ)神父を中心とする諮問委員会が設けられそこで評価されることになった。1486年だけで二度委員会は開かれたが、コロンブスが示したアジアまでの距離が特に疑問視され、結論は持ち越された。
1490年、タラベラの委員会は提案に反対する結論を出したことでコロンブスは諦め気味にパロス(1490年から2年間、コロンブスはパロスのラ・ラビダ修道院に客人として滞在した。)に戻り、ラ・ラビダ修道院に向かった。話を聞いたペレス院長はコロンブスを慰留し、イサベル1世の側近セバスチャン・ロドリゲスを頼り、王室に再検討を促した。このわずか2週間後、コロンブスの下に王室の書簡が届き、旅金を添えて出頭するよう勧告する内容があった。提案の検討はカスティリャ枢機院に移された。
1491年、枢機院にも案を否決されたために、万策尽きたコロンブスは弟バルトロメが滞在するフランスへ向かう決意を固めた。ここに、ルイス・デ・サンタンヘルが登場する。財務長官であった彼は女王説得に乗り出し、コロンブスが提示した条件は見込める収入からすれば充分に折り合い、また必要な経費も自らが都合をつけると申し出た。1492年1月2日に、ムーア人の最後の拠点であったグラナダが陥落したことで、スペインに財政上の余裕ができたことをサンタンヘルは指摘した。元々興味を持っていたイサベル1世はこれで勢いを得てフェルナンド2世を説き伏せ、スペインはついにコロンブスの計画を承認した。この時、コロンブスはまさにフランスへ向けてグラナダを出発したところだった。女王の伝令は彼を追いかけ、15kmほど先のピノス・プエンテ村の橋の上でコロンブスに追いついた。この橋には、劇的とも言える出来事を解説する銅版がある。
サンタ・フェ契約
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスは王室と「サンタフェ契約」を締結した。その内容は、
1.コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
2.コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
3.提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
4.提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
5.コロンブスが今後行う航海において費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。
というものだった。  (wikipedia・クリストファー・コロンブスより)]

カメラ南西方向がプラサ・デ・イサベル・ラ・カトリカです。

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