メスアール宮(メスアールの間、メスアールの祈祷室、メスアールの中庭、黄金の間)

    メスアール宮(メスアールの間、メスアールの祈祷室)
    [メスアール宮は司法 ・ 行政が行われていた場所。 アルハンブラに現存する建物としては最も古い。 (「メスアール宮 – グラナダ – Wikimapia」より)]

    [メスアールの間
    メスアール宮はおそらく現存する王宮の中で最も古い(1319年に建設)部分ですが、内部は幾度か改造されています。ここには王立裁判所が設置されていましたが、キリスト教徒征服後は、礼拝堂が置かれました。
    ここの壁は再建されたもので、当時の外観は残っていません。残念。
    でも、壁の装飾がキレイですね。16世紀にモスリコが手がけたタイル装飾です。その上には文字装飾があり、“神は力なり”“神は栄光なり”“神は世界なり”の文句が繰り返されているそうです。
    木組み天井は、部分的に当時のオリジナルが残っています。金箔も残っているみたいですね。柱頭の彩色は、1995年に復元されたもの。もともと今ある出入り口のある場所についていたようです 
    メスアールの祈祷室
    1590年の爆発で甚大な被害を被ったため修復された場所で、さらに1917年にも再修復されています。祈祷室のミフラブ(メッカの方向を示すもの)には、ムハンマド5世に関する碑文があるそうです。碑文にはこんな言葉が記されています。“怠け者となるべからず、祈祷にきたるべし” 
    メスアールの中庭
    小さな中庭で、昔は「メスキータ(モスク)の中庭」と呼ばれていたそうです。中央にある丸いひだ飾りのついた噴水は、オリジナルの複製です。
    黄金の間
    ナスル朝時代には、宮殿に入るにあたり、許可が下りるのを待つ場所だったそうです。
    木組天井が美しい。画像右上の木組天井には金箔が使われていて、それが「黄金の間」の名前の由来だそうです。  (「La Comodona | アルハンブラ宮殿2 -スペイン旅行(2011/05/19)」より)]

    メスアールの間入口・wikipedia-photo

    メスアールの間・wikipedia-photo

    ウィキメディアコモンズには、アルハンブラ宮殿(メスアールの間)の画像またはその他のファイルが含まれています。

    メスアールの祈祷室・wikipedia-photo

    ウィキメディアコモンズには、アルハンブラ宮殿(メスアールの祈祷室)の画像またはその他のファイルが含まれています。

    黄金の間・wikipedia-photo

    メスアールの中庭・wikipedia-photo

    ウィキメディアコモンズには、アルハンブラ宮殿(黄金の間・メスアールの中庭)の画像またはその他のファイルが含まれています。

    【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】(「むらさきホームページ」より)

    アルハンブラ宮殿 平面図(「グラナダの アルハンブラ宮殿 (スペイン) | イスラーム建築の名作 …」より)

    Mexuar room – Google Map 画像リンク

    カメラ東北東方向がメスアール宮エントランス(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の②です。)で、カメラ北北西方向・植込み部分がマチューカの中庭です。

    メスアールの間のカメラです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の③です。)

    メスアールの祈祷室のカメラです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の④です。)

    黄金の間(王の間)のカメラです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑤です。)

    メスアールの中庭(金の中庭)のカメラです。北方向が黄金の間(王の間)で、南方向がコマレス宮ファサードになります。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑥です。)

    アルハンブラ宮殿
    [イスラーム教徒イベリア半島に進出する前8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国(415年 – 711年)の支配下にあった。711年、ウマイヤ朝(661年 – 750年)の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
    イベリア半島では11世紀前半から、キリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタ(718年 – 1492年)が本格化し、1085年にはトレド、1236年にはコルドバ、1246年にはセビーリャを陥れた。イスラーム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 – 1492年)の時代に入ってからである。メディナ出身デアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)、および、その子ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない。)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世(Yusuf I、1333-1354)とその息子のムハンマド5世((Muhammed V、1354-1359, 復位1362-1391)の時代である。ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある。)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。
    「アルハンブラ宮殿、ナスル朝宮殿」・wikiprdia-photo  (wikipedia・アルハンブラ宮殿より)]

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