ライオン宮(アバンセラッセの間、ライオンの中庭、二姉妹の間、諸王の間、リンダラハのバルコニー)

    [ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の大理石円柱が立ち並んでいる。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族を描いた絵画がある。これは、初代のムハンマド1世から10代のアブー・サイードまでのナスル朝スルタンであるという説と、重臣が法廷を開いている場面であるという説があり、後者の説に基づき、「裁きの広間」とも呼ばれている。
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    ライオン宮(アバンセラッセの間)・wikipedia-photo

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    ライオン宮(ライオンの中庭)・wikipedia-photo

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    ライオン宮(二姉妹の間)・wikipedia-photo

    ライオン宮(リンダラハのバルコニー)・wikipedia-photo

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    ライオン宮(諸王の間)・wikipedia-photo

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      (wikipedia・アルハンブラ宮殿より)]

    [「ライオンの中庭」(Patio de los Leones)はイスラム芸術の最高傑作ともいえる美しさで知られています。。中央に12頭の石のライオンに支えられた噴水があり、四方は大理石の柱が林立する回廊となっています。柱と柱の間の上部はアーチで、レースのような繊密な模様が施されています。ライオンの中庭を挟んで一方に「アベンセラヘスの間」(Sala de los Abencerrajes)、もう一方に「二姉妹の間」(Sala de las Dos Hermanas)があり、それぞれに「モカラべ」と呼ばれる鍾乳石状の複雑な装飾が埋め尽くした、息をのむ美しさの丸天井があります。その奥には、「ダラハの見晴台」(Mirador de Daraxa)があり、ボアブディル王の妻ダラハは、ここからグラナダ周囲の展望を楽しんだと言われています。後のキリスト教徒時代にカルロス5世の部屋が前方に出来た為、以後眺望がきかなくなりました。  (「Granadaのアルハンブラ宮殿, スペイン: Granadaのモニュメント |日本 …」より)]

    【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】(「むらさきホームページ」より)

    アルハンブラ宮殿 平面図(「グラナダの アルハンブラ宮殿 (スペイン) | イスラーム建築の名作 …」より)

    ライオンの中庭 – Google Map 画像リンク」「Sala de los Reyes – Google Map 画像リンク」「Mirador de Daraxa – Google Map 画像リンク

    カメラ南西方向が控えの間です。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑩です。)

    アバンセラッセの間の360citiesです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑫です。)

    アバンセラッセの間のカメラです。

    ライオンの中庭のカメラです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑪です。)

    カメラ南方向が二姉妹の間(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑭です。)で、カメラ北方向がリンダラハのバルコニー(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑮です。)です。
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    二姉妹の間の360citiesです。

    二姉妹の間のカメラです。

    リンダラハのバルコニーのカメラです。

    諸王の間の360citiesです。(【 Nasrid Palace ナスリ宮の全体図 】の⑬です。)

    諸王の間のカメラです。

    [イスラーム教徒イベリア半島に進出する前8世紀初頭まで、この地は西ゴート王国(415年 – 711年)の支配下にあった。711年、ウマイヤ朝(661年 – 750年)の北アフリカ総督であるムーサー・イブン・ヌサイルが武将ターリクに命じ、トレドまでを占領。その後数年で、イベリア半島全域がイスラーム圏となった。この地に、最初に栄えたのが後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)であるが、このときの都はまだコルドバであり、グラナダの丘の上には軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた。現在、アルハンブラの最も西の部分である。
    イベリア半島では11世紀前半から、キリスト教徒の国土回復運動であるレコンキスタ(718年 – 1492年)が本格化し、1085年にはトレド、1236年にはコルドバ、1246年にはセビーリャを陥れた。イスラーム圏に残されたのは、グラナダを中心とするアンダルシア南部地方のみとなった。一方、アルハンブラ宮殿が大きく拡張されたのは、この時期に建国したイベリア半島最後のイスラム王国であり、グラナダを首都としたナスル朝(1238年 – 1492年)の時代に入ってからである。メディナ出身デアル・アフマド家の血を引くムハンマド1世(Muhammed I ibn Nasr、1232-1273)、および、その子ムハンマド2世(Muhammed II al-Faqih、1273-1302)が60年も歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、宮殿(14世紀に取り壊され、現在は残っていない。)を造った。その後も歳月と共に建物や塔が建築されていったが、大きな変貌を遂げるのは、ナスル朝の黄金時代を築いたユースフ1世(Yusuf I、1333-1354)とその息子のムハンマド5世((Muhammed V、1354-1359, 復位1362-1391)の時代である。ユースフ1世時代には、城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られた。ムハンマド5世の時代には、城廊では、ぶどう酒の門(城廊のなかでは唯一アラベスク模様の装飾がある。)、宮殿ではライオンの中庭を中心とする建物が造られた。  (wikipedia・アルハンブラ宮殿より)]

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