王室礼拝堂

マーカーは王室礼拝堂です。

王室礼拝堂(英語:Royal Chapel of Granada、スペイン語:Capilla Real de Granada)
[王室礼拝堂はグラナダにおけるカスティーリャ王国の存在、グラナダにおける王国の影響力を示すシンボルとなりました。大寺院のすぐ横。カトリック両王の墓所として、孫にあたるカール5世_(神聖ローマ皇帝)が完成させました。中央の壮麗な鉄格子の中には、大理石彫刻の墓が二対あり、右側の大きい方がカトリック両王、左側が、その娘夫婦フアナフェリペのものです。遺骸は、狭い階段を下りた質素な地下室にあり、鉛の棺が4つ並んでいます。  (「王室礼拝堂 (Capilla Real)のGranada | spain.info 日本語」より)]

[カトリック両王の命を受けて建立され、1504年、彼らの墓を設置するため、エンリケ・エガス(Enrique Egas)の手で完成されました。王室礼拝堂の三方はカテドラルと至聖所、前廊とそれぞれ接しているため、外からはプラテレスク様式ファサードだけが見えます。フランドル派の貴重な彫刻や絵画を収蔵する王室礼拝堂には、カトリック女王イサベル所有のコレクションであったディルク・ボウツ作の有名なキリスト受難の三連祭壇画があります。この作品は、その規模と特性からグラナダで最も重要な絵画作品と考えられています。
カトリック両王の遺体を安置する墓所の建設は、1505~1521年にかけてエンリケ・エガスの手で行われました。後陣内陣、地下納骨堂を備えるラテン十字の造りです。交差廊は、王家の墓所と建物の残りの部分を隔てる黄金色の見事な鉄格子で閉じられ、構内の霊廟としての価値と、礼拝堂の創設の意義が見事に強調されています。  (「CAPILLA REAL (王室礼拝堂) – Turismo de Granada」より)]

グラナダの開城
[キリスト教徒の征服が差し迫った1487年、グラナダの法学者たちはムハンマド11世(ボアブディル)(1482-1483、 復位1487-1492)に対し、マムルーク朝に使節を派遣し救援を求めるよう迫ったが、マムルーク朝の援軍は派遣されず、グラナダ攻略の見合わせを求めるキリスト教修道士(聖墳墓教会)2名がカトリック両王に派遣されただけであった。
1491年春にフェルナンド2世の1万騎の軍勢によりグラナダは包囲され、年末には籠城側の窮乏は限界となった。1491年末にムハンマド11世とカトリック両王間で降伏協定が結ばれ、1492年1月2日にグラナダは無血開城しレコンキスタが完了した。
グラナダ陥落(右手前の馬上がイサベル)・wikipedia-photo  (wikipedia・ナスル朝より)]

王室礼拝堂正面玄関・wikipedia-photo

王室礼拝堂身廊・wikipedia-photo

カトリック両王の墓及びフアナとフェリペの墓・wikipedia-photo

ウィキメディアコモンズには、王室礼拝堂(グラナダ)の画像またはその他のファイルが含まれています。

グラダナ大聖堂・王室礼拝堂平面図

Plan of the cathedral de Granada. 1. Cathedral. 2. Royal chapel. 3. Chapel/museum. 4. Sacristy

Royal Chapel of Granada – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が王室礼拝堂ゲートで、カメラ南南西方向ドアが博物館入口になります。

王室礼拝堂身廊のカメラです。

左-カトリック両王の墓、右-フアナとフェリペの墓。

王室礼拝堂祭壇前のカメラです。

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