バレンシア市庁舎

マーカーはバレンシア市庁舎です。

バレンシア市庁舎
[市庁舎前広場は中央鉄道駅(ノルド駅)から徒歩数分。駅を背にしてAve.Marques de Soteloを進むと左手に市庁舎ビルがあり、市庁舎広場(Pl. del Ayuntamient)があり、広場を囲んでで中央郵便局等官公庁があり、その先に商店街があり、通りを進むと国立陶芸博物館(Museo Nachional de Ceramica)、もっと先に進むとレイナ広場(Pl. .de la Reina)、レイナ広場の先がカテドラルです。市庁舎にはインフォがあり、ショップもあります。内部は大変豪華な造りで内部ツアーができるようなので、「参観できますか?」とお聞きしたのですが、許可されませんでした。市庁舎近くの道路は大理石。思わず見入りました。バルセロナに比べ、バレンシアはとても暑かったです。スペインの地中海よりの町は3月末でも汗ばむほどでした。3月12日~19日バレンシアの火祭りが行われる事で有名です。  (「市庁舎と市庁舎広場」より)]

[サン・ホセの火祭りがクライマックスを迎える19日深夜祭り最大の見どころは、19日深夜に行われるファヤスへの点火。最も人気があるのが、市役所広場に設置されている大小2つのファヤスで、バレンシアの火祭りのシンボルとなっています。市庁舎広場で見学する方の多くは、小型のファヤの点火を見て、そのままその場に残り、大型ファヤへの点火を待ちます。大勢の人が集まりますので、早めに場所取りをしたほうがよいでしょう。また、あまり近づきすぎると、火の粉が飛んでくることがありますのでご注意を!ファヤスは市庁舎広場以外にも、町のいたるところに設置されているので、市庁舎広場にこだわる必要はありません。(サン・ホセの火祭りの詳細は、「スペイン,Valenciaの羖俕なお祭り: スペインのサン・ホセの火祭り 」をご覧ください。]

Valencia City Hall – Google Map 画像リンク

カメラ西方向がバレンシア市庁舎で、市庁舎正面右に観光案内所があります。

バレンシア市庁舎正面のカメラです。

観光案内所のストリートビューです。

バレンシア
[それまでは「エデタニア」(Edetania)と呼ばれていた土地を、紀元前137年にローマ人が植民したことによって植民都市が建設され、「ワレンティア」(ウァレンティア Valentia 、強さ・活力の意)と名付けられた。紀元前75年にポンペイウスとセルトリウス(Quintus Sertorius)の争いによって破壊されたが、再建された。
バレンシアは西ゴート王国(415年 – 711年)、次いでイスラム教徒[ウマイヤ朝:661年 – 750年、後ウマイヤ朝:756年 – 1031年、バレンシアのタイファ(アーミル朝):1021年 – 1066年]に支配された。1094年、エル・シッドに征服されたが、彼が死ぬとムラービト朝(1040年 – 1147年)に奪回された。1238年、アラゴン王ハイメ1世(在位:1213年 – 1276年)がこの地を征服し、以降はキリスト教国の領土となった。ハイメ1世が建てたバレンシア王国は、アラゴン王国の一部を構成した。
15世紀から16世紀には、バレンシアは地中海でもっとも重要な都市の一つであった。ローマ教皇カリストゥス3世(在位:1455年 – 1458年)とアレクサンデル6世(在位:1492年 – 1503年)を輩出したボルジア家はバレンシアの出身である。チェーザレ・ボルジアは17歳でバレンシア大司教に任命されている。
18世紀のスペイン継承戦争(1701年 – 1714年)では、バレンシアはオーストリアの推すカール大公の側についた。1706年、イギリス軍がバレンシアに入城したが、アルマンサの戦いでフランス・スペイン軍が勝つと、イギリス軍は撤退しバレンシアは自治権を失った。
スペイン内戦(1936年7月 – 1939年3月)では、共和国政府はバレンシアを臨時の首都としたが、フランコ軍により包囲された。フランコ時代にはバレンシア語の会話・教育が禁じられた。スペインの民主化後、1982年にバレンシア州が自治州となり、現在では、バレンシア語の教育が義務化されている。
1957年、市内を流れるトゥリア川が大洪水を起こした。このため川の流路を市の南側に変える工事が行われ、排水された旧トゥリア川の跡は7kmにわたる公園となった。1996年には旧トゥリア川跡に芸術科学都市が建てられた。
2006年7月、バレンシア地下鉄脱線事故が発生した。  (wikipedia・バレンシア_(スペイン)より)]

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