市役所

マーカーは市役所です。

市役所(カサ・デ・ラ・バリェ)
[かつてはバリェ侯爵の邸宅があった場所で、現在の市庁舎建物はフアン・ゴメス・デ・モラの設計で1693年に完成した。2007年11月よりマドリード市長や本庁舎はシベーレス広場に面したコムニカシオネス宮殿へ移転したため、この建物はもっぱら分室機能だけとなっている。
「カサ・デ・ラ・ビリャ」・wikipedia-photo  (wikipedia・ビリャ広場より)]

[すでに宮廷がマドリードに設置され、17世紀が始まって大分経った頃まで、市議会は今はなきエル・サルバドール教区のマヨール通りで開催されており、市庁舎として相応しい本拠設置の必要性が問われました。街の建築長ファン・ゴメス・デ・モラが1644年に建設にとりかかり、1648年にその弟子ホセ・デ・ビジャレアルがこれを引き継ぎました。1690年にはテオドロ・アルデマンスがステンドグラスに覆われていることでガラスの中庭と呼ばれる壁を装飾し、第1期工事が終了した1692年にはアントニオ・パロミノによって総会ホールの丸天井にフレスコ画が描かれました。 (「esMADRID.com – 1日で周るマドリードの建築物&モニュメント」より)]

Casa de La Villa. City of Madrid – Google Map 画像リンク

カメラ西南西方向が市役所(カサ・デ・ラ・ビリャ)です。

マドリード
[マドリードの地には先史時代から人間が住んでいた。古代ローマ時代にはコンプルトゥム(現在のアルカラ・デ・エナーレス)の司教管区に属していた。マドリードが最初に歴史の記録に残されたのは、9世紀に後ウマイヤ朝(756年 – 1031年)のムハンマド1世(在位:852年 – 886年)が現在の王宮の位置に、小さな宮殿の建設を命じたときである。この宮殿のそばには小さな要塞が建てられた。近くのマンサナーレス川はアラビア語で「アル・マジュリート」(المجريط、「水の源」の意)と呼ばれ、そこからこの地は「マジェリト」と呼ばれるようになり、現在の「マドリード」となった。
1085年に要塞はトレドに向かう途上のアルフォンソ6世(在位:1072年 – 1109年)に征服され、モスクは教会に建て替えられた。1329年、フェルナンド4世(在位:1295年 – 1312年)に助言するための最初の議会(コルテス)がこの都市で開かれた。セファルディムユダヤ教徒)やイスラム教徒もここに住み続けたが、15世紀の終わりに追放された。エンリケ3世(在位:1390年 – 1406年)の時代には、都市は大火のあとに再建され、王は城壁外のエル・パルドに住んだ。
1561年にフェリペ2世(在位:1556年 – 1598年)が宮廷をマドリードに移した。1601年から1606年の短期間、フェリペ3世(在位:1598年 – 1621年)が宮廷をバリャドリッドに移したが、スペインの黄金時代にマドリードは新大陸から流入する富によって栄えた。
18世紀にフェリペ5世(在位:1700年 – 1724年、1724年 – 1746年)は、ヨーロッパの首都としてふさわしいようにマドリード王宮を含む新しい宮殿の建設を行ったが、マドリードが近代的な都市となったのは、カルロス3世(在位:1759年 – 1788年)の代であった。
カルロス4世(在位:1788年 – 1808年)が即位すると、マドリードは反乱を起こした。1808年、息子のフェルナンド7世(在位:1808年、1813年 – 1833年)に率いられたアランフエスの蜂起のあと、カルロス4世は退位し、5月にナポレオン・ボナパルトの部隊がマドリードに入城した。5月2日、マドリード市民はフランス軍に対して反乱を起こしたが、鎮圧された。1814年にフェルナンド7世が王位に復帰したが、19世紀の間は自由主義派と保守派の争いが続いた(カルリスタ戦争)。
スペイン内戦(1936年 – 1939年)では、マドリード市内は戦場となった。マドリードは人民戦線政府の拠点だったが、1936年11月、西の郊外でマドリードを奪取しようとするフランコ軍によって戦闘が繰り広げられた。マドリードは3年の間包囲されたのち降伏した。マドリードは初めて民間人を標的とした航空爆撃を受けた都市となった。  (wikipedia・マドリードより)]

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