プラハ城(聖ヴィート大聖堂)

マーカーは聖ヴィート大聖堂です。

聖ヴィート大聖堂
[聖ヴィート大聖堂 (チェコ語:Katedrála svatého Víta)はチェコプラハにある大聖堂で、プラハ大司教の主座である。 大聖堂の正式名称は「聖ヴィート、聖ヴァーツラフ、聖ヴォイテフ(Vojtěch)大聖堂」である。 プラハ城の内側に位置し、多くのボヘミア王の墓を有する。この大聖堂はゴシック建築の代表例であり、チェコで最も大きくて重要な教会である。大聖堂が現在ある場所に最初の教会(これもまた聖ヴィートに捧げられていた)が建てられたのは925年のことで、ヴァーツラフ1世(聖ヴァーツラフ・在位:921年 – 935年)によって初期ロマネスク建築のロトンダ(円形建築)が建設された。1060年にはプラハに司教区が置かれた。小さなロトンダでは熱心な信者に対応しきれなくなり、スピチフニェフ2世(在位:1055年 – 1061年)は大規模な教会の建築に乗り出した。典型的ロマネスク建築のかなり大きなバシリカが、同じ場所に建設された。現在のゴシック建築の大聖堂は1344年の11月21日に設立され、これよりプラハ司教区は大司教区に上げられた。その後援者には、ボヘミア王で神聖ローマ帝国皇帝にもなったカール4世(モラヴィア辺境伯・在位:1334年 – 1349年、ボヘミア王カレル1世・在位:1346年 – 1378年、神聖ローマ皇帝・在位:1355年 – 1378年)が挙げられる。彼は新しい大聖堂を、即位式を行う教会、一族の地下納骨堂、王国で最も貴重な遺物の保管庫、そして守護聖人ヴァーツラフの最後の休息地であり巡礼地となるよう取り計らった。最初の建築家として、フランス人アラスのマティアがアヴィニョンの教皇庁宮殿から召喚された。マティアは、フレンチ・ゴシック建築を取り入れて、建物のレイアウト全般をデザインした。マティアが1352年に世を去ると、新しい建築家が大聖堂の仕事を引き継いだ。これがペトル・パルレーシュで当時わずか23歳、シュヴァーベンのグミュントにあるハイリゲン・クロイツ教会の建築家の息子だった。 パルレーシュは最初、前任者の残した計画通りに動いて、クワイヤの北に聖器保管室を、南に教会堂を作った。マティアが未完のまま残した部分を完成させると、自分自身のアイデアにしたがって仕事を続けた。パルレーシュの大胆で革新的なデザインは、建築にゴシック要素に新しい独特な風合いをもたらした。しかし大聖堂の作業の進行はかなり遅かった。皇帝はパルレーシュに、他の多くのプロジェクトを大聖堂と同時期に課しており、プラハに新しくカレル橋を架けたり、チェコ全域に多くの教会を建設したりしていたからである。 1397年にペトル・パルレーシュが逝去したときには、クワイヤ翼廊部分だけが完成していた。ペトル・パルレーシュの死後、彼の息子のヴェンツェル・パルレーシュとヨハン・パルレーシュが作業を引き継いだ。彼らの後は、名工ペトリルクが引き継いだが、彼はパルレーシュの工房の職人でもあったというのが衆目の一致するところである。彼ら三人の名匠の下、翼廊と南側の大塔が完成した。そして塔と南の翼廊をつなぐ破風も完成した。通称ゴールデン・ゲート、上部に「最後の審判」の金色のモザイクがあるためそう呼ばれるこの門は、王が即位式に臨むため大聖堂へと通り抜ける入り口である。建築過程すべては15世紀前半に起きたフス戦争(1419年 – 1439年)の開始により停止した。ほぼ一世紀に渡って確実な作業を続けてきた工房は戦争により活動を止め、多くの絵や彫刻などの大聖堂の内装はフス派聖像破壊運動によってかなり被害を受けた。さらに、1541年の大火が大聖堂にひどい損壊を与えた。次の世紀の間ずっと、大聖堂は作りかけの状態で建っていた。翼廊と大塔は完成したが、暫定的に壁でふさがれていた。1844年プラハで開かれたドイツ人建築家の集会で、ヴァーツラフ・ペシーナは、ネオ・ゴシック建築家のヨゼフ・クランナーと共に、大聖堂の改築と完成の目指すプログラムを発表した。同じ年、「プラハの聖ヴィート大聖堂を完成させる連合」が結成され、「すべてが台無しになってスタイルが不調和な」状態からなんとか脱却することをめざした。 ヨゼフ・クランナーは1861年から1866年にかけて修復作業のほとんどを指揮し、不必要なバロックの装飾を取り除いて内装を補修していた。1870年にはついに身廊の土台が新しく作られ、1873年にクランナーが世を去ると、建築家のヨセフ・モッカーが再建を引き継いだ。彼は西のファサードに、典型的な盛期ゴシックの様式で2つの塔を設計し、彼の死後もそのデザインは、3人目にして修復に携わった最後の建築家カミル・ヒルベルトによって引き継がれた。ゼツェッシオンのチェコの有名画家アルフォンス・ミュシャが、身廊の北部の窓を新しく装飾した。バラ窓は1925年から1927年にかけて、フランティセク・キセラによってデザインされた。 この入り口上部のバラ窓は、聖書の創世記のシーンを表している。聖ヴァーツラフの没後1000年に当たる1929年までに、聖ヴィート大聖堂はついに完成した。完成までには約600年が費やされたのであった。大聖堂の西半分全体がネオ・ゴシック時代に追加されたにもかかわらず、ほとんどの修復にはペトル・パルレーシュが開発したデザイン要素を踏襲したため、大聖堂によく調和した統一感がもたらされた。
「聖ヴィート大聖堂。大聖堂全体がプラハ城の中に位置する」・wikipedia-photoヴルタヴァ川上流から大聖堂と城を望む・wikipedia-photo、「南から望む。メインタワーとゴールデンゲート。 ゴシック様式のメインタワーは、他のゴシック様式の教会と同様、バロック様式で仕上げられている。」・wikipedia-photo、大聖堂の正面とバラ窓・wikipedia-photoクロッシングからクワイヤまで続くヴォールトのジグザグ模様・wikipedia-photo、大聖堂内側の複雑なステンドグラス・wikipedia-photo、ミュシャのステンドグラス・wikipedia-photo、「クワイヤを支えるフライング・バットレスと小尖塔を、メインタワーから望む」・wikipedia-photo、「20世紀の建築家がネオ・ゴシック的要素と並んで見られる」・wikipedia-photo  (wikipedia・聖ヴィート大聖堂より)]

聖ヴィート大聖堂 – Google Map 画像リンク」、「南塔 – Google Map 画像リンク」、「Golden Gate – Google Map 画像リンク」、「Capela de São Venceslau – Prague Castle – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が聖ヴィート大聖堂正面です。

聖ヴィート大聖堂拝廊のカメラです。

聖ヴィート大聖堂中央交差部のカメラです。

聖ヴィート大聖堂内陣祭壇前のカメラです。

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